『金色夜叉』とは?
『金色夜叉』は「愛」をテーマにした尾崎紅葉の小説です。
- 前編
- 中編
- 後編
- 続金色夜叉
- 続続金色夜叉
- 新続金色夜叉
という六篇からなる超大作になっています。
未完ではありますが、近代日本文学の中でもかなり評価が高い作品です。
ここではそんな全六篇『金色夜叉』のあらすじ・解説・感想をまとめました。
『金色夜叉』のあらすじ
主人公の貫一は、類い稀な美しさを持つヒロインのお宮と結婚を約束していた。
しかしお宮の美しさに、富山という富豪の男が眼を付けてアプローチをかけたところ、お宮は心変わりしてしまう。
お宮に裏切られ、愛よりも金かと絶望した貫一は、生きながら悪魔になって、恨みを持ち続け世を送ることを決意する。
五年後。心を常に荒ませるために、高利貸しという悪徳な商売をあえて選んだ貫一は、その道で名を挙げていた。
貫一に想いを寄せる満枝という女性などもいるものの、彼はてんで相手にせず、友人とも縁を切り、さながら亡霊のように生きていた。
富山と結婚したお宮は、優雅な暮らしを送っていたものの、実は貫一のことが忘れられずにいた。
彼女は貫一を想うあまり塞ぎ込んでしまい、貫一を選ばなかったことを深く後悔しながら日々を送っていた。
彼女は意を決して手紙を書くが、どんな事が書かれてあろうとも、昔の宮は戻ってこないという理由から、貫一は読まずに捨てていた。
それからしばらくすると、貫一の家にある人が訪れた。その人はなんとお宮だった。
彼女は、「貴方を選ばなかったことを本当に後悔している。赦してもらえるなら私は死んでもいい。いっそ貴方の手で殺してくれ」と迫る。
貫一は「それならば勝手に死ね」と喝破し、その場を出て行ってしまう。
だがそれをきっかけに、貫一はお宮が自害する夢を見て、その立派な悔悟を見て、夢の中で彼女を赦す。
貫一はこの夢のせいで胸が苦しくなり、それを癒やそうと栃木へ湯治に出かけた。
そこにいた隣室の男女が自殺しようとしているのを、貫一は思わず止めに入る。
男は狭山、女はお静といい、二人はこれまでの経緯を貫一に話し始める。
二人の状況は、当時の貫一とお宮の境遇に似ていた。
ただひとつ違うのは、女性が金ではなく愛を選んだという点だった。
貫一はこの世にまだ誠実な心があることに深く感動し、彼らを救おうと決心する。
貫一に救われた二人は、貫一の家で暮らし、貫一はお宮の手紙を読み始める。
・『金色夜叉』の概要
主人公 | 貫一 |
物語の 仕掛け人 |
お宮 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 明治時代 |
作者 | 尾崎紅葉 |
-解説-
・貫一とお宮・狭山とお静の対比
物語の最後には、
- 狭山
- お静
という二人が登場します。
この二人は、『金色夜叉』の中でもかなり重要な人物です。
狭山は会社の金で遊んでしまい、その借金を返すか、借金を帳消しにする代わりに社長の娘と結婚するか、どちらかの選択を迫られます。
一方のお静は、ある富豪にその美しさを見込まれ、妾(側室)にしたいと迫られます。
お静は、「少しの間だけ妾になって、富豪に頼んで狭山の借金を返し、そうして逃げたら良いだろう」と狭山に持ちかけます。
しかし狭山は、「金のためにお前を売るような真似はできない」と断るのです。
とはいえ、返す金の当てもない二人は、いっそ二人で死んでしまおうと思い詰めます。
つまり、狭山とお静は、金よりも愛を選んだ二人として描かれるのです。
こうした二人の描写は、物語の序盤で、愛よりも金を選んで別れた貫一とお宮とは対照的に描かれます。
未完とはいえ、『金色夜叉』にはこのようにきれいな対比構造があるので、物語的にはすっきりとまとまっている作品です。
・愛か金か
先に見てきて分かる通り、『金色夜叉』は、
- 愛と金
というテーマが物語を貫いています。
ですが、「愛の方が金よりも素晴らしい!」というようなことではありません。
実際、狭山とお静の二人を救うのも、貫一の持っている「金」です。
金があったからこそ、二人の愛は途切れることなく続きます。
金と愛は比べられるものではなく、それぞれ生きていく上で必要なものなのです。
では、お金もあり愛もあった二人は、なぜ別れてしまったのか。
次はその点を深く掘り下げていきます。
・貫一は本当にお宮を愛していたか?
結論から言うと、貫一はお宮を愛していなかったのではないかと考えられます。
その理由は、
- お宮を自己の快楽として見ていた
- 愛という「概念」に囚われていた
- 心の底から惚れてはいなかった
という三つがあります。
ここでは、その3つの理由をひとつずつ見ていきます。
理由1.快楽としてのお宮
まず、基本的に貫一は、お宮の外見しか褒めません。
「こんな美しい人が、毎日俺の世話をしてくれると、想像するだけで幸せだ」
といったふうにです。
お宮の心が好きだとか、訳もなく好きだとか、そうした描写は一切ありません。
貫一は、ただお宮の美しさだけを見ているような描かれ方になっています。
美しい人とずっと一緒にいられるというのは、たしかに快いものでしょう。
そのうえ、お宮は道行く誰もが振り返り、どんな言葉を並べても足りないほどの美少女なので、その快さは計り知れません。
ですが、こうした彼の感覚は、ずいぶん独りよがりなように思います。
このように一方的な感情は、現代的な視点では愛とは言えません。
貫一の感情は愛ではなく、ただお宮を快楽的に見ているのではないかというのが、理由のひとつです。
理由2.愛という「概念」に囚われている
お宮は結婚するとたちまち後悔して、貫一との復縁を望みます。
しかし、貫一はこれを頑なに拒むのです。
僕なんかは、「もう許したら良いのに」と何度も思ってしまいます。
これほどまでに貫一がお宮を拒むのは、
- 何をしても結婚する前のお宮には戻れないから
という理由があります。
いわゆる「処女崇拝」というやつで、一度ほかの男のものになったからには、穢れているという考えです。
こうした考えをもとに、おそらく彼は「不貞を働いた人間と、清く正しい愛は為しえない」と思っているのでしょう。
つまり、お宮を想う感情ではなく、彼の中にある愛という「概念」を優先して、彼女を拒んでいるのです。
愛とはこういうものだ!という貫一の凝りかたまった考えが読み取れます。
理由3.見惚れだった
物語のラストで、お静が貫一に三つの「惚れ」について話す場面があります。
簡単にまとめると、
- 見惚れ=15.6歳。外見だけで惚れる
- 気惚れ=17~20歳。雰囲気や気が合って惚れる
- 底惚れ=23.4歳~。心底から惚れる
の三つです。
この話を聞いて、貫一は大いに感心し、お宮と別れてから初めてといって良いほど笑います。
これを貫一とお宮に当てはめると、二人は見惚れや気惚れの年頃で、底惚れには至っていないということになります。
その話を聞いた貫一は、お宮が富山に気惚れしたのだと合点がいったのでしょう。
また自分も、お宮に見惚れだったのかもしれないと思ったかもしれません。
実際貫一は、底惚れの年頃になってもお宮を想うようなことはなく、ただ恨みばかり募っていました。
こうしたことからも、貫一はただの見惚れ・気惚れで、お宮を心から愛していたわけではなかったと考えることができます。
以上、三つの理由を見てきました。
まとめると、貫一はただ、
- 人に裏切られたことによる恨み
- 美しい人が自分の物にならなかった悔しさ
などの感情が強い人物だったのではないでしょうか。
一方で、お宮は底惚れの年齢で貫一を強く想い始めています。
秋の空のようにも思えますが、もしかするとお宮の本心だけは本物の愛だったのかもしれません。
-感想-
・「愛」を探求する貫一
物語の最後で、貫一は狭山とお静を家に招き入れ、三人で暮らしている様子が描かれます。
当時はあまり珍しいことでもなかったのかもしれませんが、今ではかなり変な家族構成です。
彼らを繋げているのは、彼らなりの「愛」だけで、他には何もありません。
貫一は狭山夫婦の行く末を見て、人生には自分の信じるような「愛」があるのかを見極めるつもりです。
彼の「愛」を探求する物語は、彼が死ぬまで終わることはありません。
・『金色夜叉終編』について
『金色夜叉』は未完の小説で、他の人によって様々な続編が書かれています。
中でも門下生の小栗風葉が書いた『金色夜叉終編』は有名です。
『金色夜叉終編』は以下のように物語を終わらせます。
- 貫一は人間味を取り戻し、高利貸しを辞める
- お宮は精神を病んでしまい精神病院に入る
- 満枝と荒尾はヨーロッパへ行く
- 貫一はお宮を看病しながら、一生連れ添うことを決意する
といった感じです。
個人的には丸く収めすぎたように思いますが、みなさんはどうでしょうか。
話は変わりますが、「続金色夜叉」の八章、夢でお宮が自害する場面は名場面です。
死にかけているお宮の、「嬉い!私は嬉い!」という半ば狂気的な台詞が心に刺さります。
あの夢の中で貫一はお宮を赦すのですが、あの「赦し」によって、貫一の心はお宮への想いにひとつ区切りがついたのではないかと思います。
なので、お宮と連れ添うという『金色夜叉終編』の終わり方は、個人的には考えにくいところです。
貫一は狭山夫婦の愛を見守りながら、いずれは鰐淵家と同じ命運を辿ってしまうのではないでしょうか。
以上、『金色夜叉』のあらすじと考察と感想でした。
この記事で紹介した本