『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のあらすじ・内容
第三次世界大戦で、放射能灰に覆われた死の星・地球。
多くの人々が火星へと移住するなか、一部の人類はいまだ地球に残って生活していた。
逃亡アンドロイドを狩ることで生計を立てている専門警察官の賞金稼ぎリック・デッカードは、飼っている動物が人工羊であることに引け目を感じている。
汚染された地球では、生きた本物の動物を飼うことが社会経済的地位のアピールになるし、心の安らぎにもなるのだ。
そんななか、先輩のデイブがある逃亡アンドロイドに重症を負わされる。
リックは署長のブライアンから、敵の逃亡アンドロイドは全部で六体いることを知らされる。
「全て仕留めれば、俺もまた本物の動物を飼うことができるだろう」
その思いを胸に、リックのアンドロイドを殺すための長く険しい一日が始まろうとしていた。
人間とアンドロイドはどう違うのか?
フィリップ・K・ディックの思想が詰まった不朽の名作。
・『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の概要
物語の中心人物 | リック・デッカード(歳) |
物語の 仕掛け人 |
レイチェル |
主な舞台 | 北カルフォルニア・サンフランシスコ |
時代背景 | 第三次世界大戦後の近未来 |
作者 | フィリップ・K・ディック |
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説
「人間とアンドロイドの違い」がテーマ
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で執拗に描かれるのは、人間を人間たらしめるものとは何か?ということです。
一言でいえば、それは「感情移入」ができるかどうか。
人間には感情移入ができて、アンドロイドにはできない。この大前提から物語は出発します。
感情移入度を測るフォークト=カンプフ検査
主人公のリック・デッカードは、人間とアンドロイドを見分けるために、フォークト=カンプフ検査という、対象の感情移入度を測定する方法を取ります。
いくつかの質問に答えてもらい、返答内容やかかった時間、また毛細血管の拡張や眼筋の反射反応を見るというものです。
質問内容は以下のようなもの。
- あなたは誕生日プレゼントに牛革の財布をもらった
- 昔の小説の登場人物が、シーフードレストランに入った。ひとりがエビを注文し、シェフは客の前で熱湯の中にエビを放り込んだ
- 君は昔の映画を見ている。画面では宴会が始まり、メインディッシュはライスを詰めた犬の丸煮だ
質問からも分かる通り、動物に対する残虐的な行為を伝えて、その反応を見るわけです。
この世界の動物は、人間が非常に強く感情移入する対象として存在しています。
そのため、「牛革」や「生きたエビの調理」や「犬の料理」といった、動物に対する残酷な仕打ちには当然強い反応を示します。
しかし、アンドロイドはその反応が人間よりも遅いか、あるいは全くスルーしてしまうので、人間であるかどうか見分けがつくわけですね。
アンドロイド自身が人間だと思いこんでいる場合も
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は登場人物が現れるたびに、「こいつはアンドロイドか?」という疑念とともに読み進めることになります。
案の定アンドロイドだったり、予想外にアンドロイドだったり、はたまた意外にも人間だったりするので、読んでいて飽きません。
さらには偽造記憶を埋め込まれたアンドロイドが、自身を人間だと思いこんでいる場合もあります。
アンドロイドと人間の違いはどこか?
主人公のリック・デッカードは、人間のようなアンドロイド、あるいはアンドロイドのような人間と出会ううちに、自分のしている仕事に意義を見いだせなくなってゆきます。
特定の検査でしか区別のつかない存在であるアンドロイドは、外見的・内面的には人間とほとんど同じ。
そんな彼/彼女らを、体がアンドロイドだからといって処理して良いのだろうか?
デッカードの悩みはそのまま読者自身の悩みとなり、デッカードとともに読者自身も答えを考えていく、その過程が魅力的な一冊でもあります。
人間かアンドロイドかは心で決まる
最初にも述べたように、人間かアンドロイドかの区別は、感情移入が出来るかどうかで決まります。
両者を分けるのは精神的な部分であり、身体的な違いではないということ。
このことがよく分かるのは、デッカードの飼うペットが、最終的に電気ヒキガエルになるところです。
物語はデッカードが電気羊を飼っているところから始まり、彼は「本物の羊が欲しい」と強く望んでいます。
そのために危険な任務を遂行し、遂には本物の黒ヤギを購入します。
しかし物語は、人のいない荒れた地で拾った電気ヒキガエルを、デッカード夫妻が飼い始める描写で幕を閉じるのです。
リックはアンドロイドを処理していくうちに、身体は機械のアンドロイドでも、心の中には人間性が存在することを見出していきます。
彼は、人間を人間たらしめる「感情移入」の力で、アンドロイドにも感情移入してしまったわけです。
そんな彼が出した答えが、電気ヒキガエルを飼うということ。
つまり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のプロットは、生きた動物か、それとも人工品かという身体性を超越したデッカード夫妻を描くことで終結しているのです。
身体性で区別するのではなく、そこに生じる精神性・思いやりの有無で区別することが大切ではないか?というメッセージが読み取れます。
三世界に分けられる人間の階層
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の魅力はメッセージ性やテーマ性だけではありません。
物語を構成する様々な小要素が絡み合い、世界を織りなしてゆく作者の構築力も外せないポイントでしょう。
小説を読み勧めていくと、この物語世界が3つの階層に分かれていることが分かってきます。
- 火星移住層(死の灰から逃れた最高層。一人一体アンドロイドを所有できる)
- 地球残存適格者層(望むなら火星に移住できるが、本人の意思で地球に残っている中間層)
- 地球残存特殊者層(望んでも火星に移住できない最下層)
つまり、天界・人間界・地獄のように、物語の中で区分けされているわけです。
作中では誰がどこに属しているのか、少しだけ触れておきます。
火星移住層
基本的に火星の生活者は描かれず、火星から逃亡してきた6体のアンドロイドが、間接的に火星を語ることになります。
彼らが言うところによると、火星はそれほど良いところではないようです。
地球残存適格者層
主人公であるリック・デッカードは、本人の意志で地球に残っている中間層。
彼は火星から逃亡してきたアンドロイドを処理することで生計を立てています。
彼の同僚や上司、同じマンションに住む住人などがこの層に属します。
地球残存特殊者層
そして、リック・デッカードと代わる代わる描かれるのが、影の主役であるJ・R・イジドアという人物。
彼はこの世界の除け者で、望んでも火星に移住できない最下層に属します。
どもりがちで論理的な思考が苦手な彼は、「ピンボケ(精神機能テスト不合格者)」の烙印を押され、人間並に扱ってもらえません。
特殊者は彼しか登場しませんが、それだけに物語の重要人物としての役目を負っています。
宗教・文化の設定
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の魅力を語るうえで外せない小要素はほかにもあります。
- ウィルバー・マーサーを教祖とするマーサー教(人間教といっても良い)や、人気司会者バスター・フレンドリーといったアイコン
- ひとり残らず個性的で、忘れがたいキャラクターの逃亡アンドロイドたち
- その箱に触れると遠くの人とも共感体験をすることができる「エンパシーボックス」
- さまざまな感情を自由自在にコントロールできる「情調オルガン」
- 人類の心の安泰に必須であり、誰もが一匹は飼っているなにかの動物
- 地球を蝕み続ける放射能灰によるキップル化(役に立たない物と化してしまう)の進行
こうした小要素が立体的に絡み合い、とはいえディープすぎない程度で織りなされていく。
そこに、SF初心者でも親しみやすい不朽の名作となっている本作の秘密があるように思います。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と『ブレードランナー』の違い
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、映画『ブレードランナー』の原作でもあります。
ここでは、映画も観て小説も読んだ僕が、原作と映画の違いをまとめました。
大きな違いは細かい設定の有無
まず言っておくと、映画『ブレードランナー』と小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の内容はかなり違います。
大きな相違点は、
- 電気羊が登場しない
- 主人公のリックに妻がいない
- 主人公の賞金稼ぎ設定がない
- 小説世界内の宗教であるマーサー教がない
- 人気コメンテーターのバスター・フレンドリーがいない
- エンパシーボックスなどの細かい設定がない
- 地球残存特殊者層の描かれ方が違う
- 地球の状況が良好(小説は死の灰に覆われている)
- アンドロイドの行動動機が強い(非常に人間を憎んでいる)
- アンドロイドを造った会社が違う(映画はタイレル社、小説はローゼン社)
- 日本要素が強い(原作では日本要素は皆無)
といったところ。
映画では、奴隷としてこき使われ虐げられたアンドロイドが、アンドロイドを造った博士や人間に復讐する内容になっています。
要するに、映画はアンドロイドと人間の対立や確執に焦点が当てられ、ハラハラドキドキするアクションシーンが多いです。
映画としては見ごたえがあり、十分楽しめる作品になっていますが、その分ほかの要素が大胆に削られているので、原作とは大きく異なった作品になっているのも事実でしょう。
小説は、人間とアンドロイドの対立を超えた哲学的な問いかけを含む物語になっていて、退廃的な世界観の中にも広がりがあります。
どちらにも良い点があり、それぞれの見どころがあるので、次の違いを見てみて作品の理解を深めてください。
以降は原作のネタバレも少し含みますので、読みたくない人は飛ばしてください。
- 映画には電気羊が登場しない
- 映画では主人公のリックに妻がいない
- 『ブレードランナー』で日本人が描かれるのはなぜか?〜小説と違う特殊者層の描かれ方〜
- エンパシーボックスなど細かい設定の有無
この4つの違いを簡単に説明していきます。
映画には電気羊が登場しない
最も大胆だと思ったのは、映画に電気羊が登場しないこと。
小説の主人公リック・デッカードは、かつて飼っていた羊を死なせてしまったため、周りにバレないよう電気羊を飼っています(放射能に汚染された作中の地球では、本物の動物を飼うことがステータスになる)。
彼は本物の動物(非常に高価)を新しく買いたいので、アンドロイド処理専門の賞金稼ぎとして、アンドロイドをたくさん狩らなくてはなりません。
賞金を山分けしたくないから、危険な任務であるアンドロイド処理にもひとりで臨むわけです。
しかし映画では主人公の動機が皆無で、所属する部署の上司から半ば強制的にアンドロイド処理を頼まれます。
賞金もなさそうなのでチームを組んで任務を遂行すれば良いものを、なぜか主人公ひとりでアンドロイド処理に立ち向かいます。このあたりは、やや不自然な流れだと言えるでしょう。
小説の中盤では、アンドロイドを3体処理した賞金でリックは本物の黒ヤギを購入し、さら終盤では、ひょんなことから電気ヒキガエルを手にしたりと、主人公の飼うペットは作中で重要な意味を持ちます。
本物の動物と電気動物に対する人間の感情は、そのまま人間とアンドロイドに対する感情の比喩として描かれているわけです。
映画では主人公の電気羊が登場しないので、結果的に小説にあるような物語の膨らみは欠けています。
映画では主人公のリックに妻がいない
小説には主人公のリックに妻がいます。
彼女は物語の最初から登場し、ラストシーンにも描かれる重要な人物です。
本物だと偽りながら電気羊を飼う生活に彼女は疲れていて、リックはそんな妻のためにも仕事を頑張ります。
一方、映画のリックは独り身で、守るべき対象はいません。
映画リックを「孤独な男」という設定にした分、レイチェルと初めて繋がったシーンは―彼女がアンドロイドであるにも関わらず―不思議な温かさを感じさせる効果が生まれています。
妻という存在は省かれていますが、その分アンドロイドとの愛を強調したかたちです。
小説でもアンドロイドとの愛は描かれますが、映画のほうがヒューマニズム的だと思います。
『ブレードランナー』で日本人が描かれるのはなぜか?〜小説と違う特殊者層の描かれ方〜
『ブレードランナー』を観て、日本的な要素が散りばめられていることに疑問を持った人は多いのではないでしょうか。
監督が日本好きだからかな?と考えてしまうかもしれませんが、そうではありません。
作中の日本人は、「火星に行けなかった最下層の人間たち」として描かれているのです。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では多くの人間が火星に移住しており、地球に残っている者は物好きな人々か、火星に行きたくても行けない最下層の人間のみです。
日本人が出てくることはありませんし、日本的な雰囲気も皆無で、地球に残っている人間も肌の色で区別したりしていません。
小説ではJ・R・イジドアという最下層の人間がひとりだけ描かれ、彼の視点で世界を見ることによって、最下層の人々の様子が分かる仕組みになっています。
実は小説は、賞金稼ぎである主人公のリック・デッカードと、最下層の人間J・R・イジドアの二人の視点から物語が進みます。
映画ではそのようなボリュームが取れないので、火星に行けない最下層の人間を、アジア系の人々の描写で代用したわけですね。
少し差別的ではありますが、近未来のロサンゼルスが舞台の映画で、分かりやすく異世界感を出すには致し方なかったのでしょう。
映画の日本的な要素は、原作の設定を汲んだ結果、監督のアイデアによってなされたものだということです。
そして、この点は思わぬ副産物を生むことになります。
『攻殻機動隊』・『マトリックス』への影響
押井守の作品『攻殻機動隊』は、『ブレードランナー』の影響を色濃く受け継いでいることで有名です。
『攻殻機動隊』の漫画やアニメに触れたことがある人ならば、ガヤガヤとした日本・中華テイストの裏路地と、『ブレードランナー』で創り出されている景色が似ていることに気付くでしょう。
さらに、映画『マトリックス』は『攻殻機動隊』にインスパイアされて作られた作品です。
つまり、
- 『ブレードランナー』→『攻殻機動隊』→『マトリックス』
と影響が連鎖し、超大作を生んでいったのです。
もし、『ブレードランナー』が小説内の特殊者層を日本的な雰囲気で描き代えることがなければ、これらの作品は生まれなかったかもしれません。
そういった意味では、小説の設定を大きく書き換えた『ブレードランナー』の価値には計り知れないものがあります。
エンパシーボックスなど細かい設定の違い
小説では、人類が孤独を感じないようにするための装置・エンパシーボックスが登場します。
また、感情をコントロールするための装置・ムードオルガンもあり、リックの妻はそれで憂鬱な気分を紛らわしています。
人間のマイナス部分をハイテクノロジーで補完するあたりは、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』にも似ているところがあります。
このようなディストピア的な近未来感が出る設定は、映画ではほとんどありません。
それから、マーサー教という作中の宗教や、有名コメンテーターのバスターフレンドリーなどが存在しないので、物語の広がりはありません。
映画はあくまでも「人間VSアンドロイド」の枠で物語が進行し、小説は「人間とアンドロイドの対立を超えた」問題を突きつけてきます。
ただ、映画の終盤でロイ・バーディが取った行動は小説のテーマにも通ずるところがあるため、監督が原作をリスペクトしていないわけではありません。
細かい違いはありますが、映画は分かりやすくエキサイティングに楽しめて、小説はより哲学的なテーマを楽しめる作品になっているといえるでしょう。
『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』
小説の延長として、最後に『ブレードランナー2049』にも触れておきます。
『ブレードランナー』は2019年の舞台設定ですが、『ブレードランナー2049』はその30年後の世界を描いた続編です。
『ブレードランナー』で描かれた「アンドロイドとの愛」をさらに一歩進め、『ブレードランナー2049』は「アンドロイドと人間の生殖」に踏み込んだ物語になっています。
原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』から引き継がれているのは思想的な土台だけで、物語自体は完全オリジナル。
とはいえ30年後のリック・デッカードは登場するので、原作は読んだけど『ブレードランナー』は観ていないという人も、原作の続編として楽しめます。
それから、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の謎である、リック・デッカードはアンドロイドなのか?という問題。
その答えが提示されることはありませんが、『ブレードランナー2049』の主人公はアンドロイドなので、そのあたりも原作を思い出させてくれるような仕掛けになっていて面白いです。
原作と2作の映画、個人的には全て観ても損はないと思います。
原作が面白かった人や、逆に映画が面白かった人は、ぜひ気になった作品に触れてみてください。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の登場人物
○リック・デッカード
主人公の捜査官。アンドロイド専門の賞金稼ぎとしてアンドロイドを狩る。
妻のイーランと暮らしており、電気羊を本物の動物に買い替えたい。
○イーラン
リックの妻。
ヒステリックなのは、飼っているのが本物の羊ではなく電気羊だと隣人に隠して生活しているから。
○ブライアン
リックの上司。賞金稼ぎを統括している。
○レイチェル
ローゼン社のアンドロイド。
リックと肉体関係を持つが、ケンカ別れになる。
○ポロコフ
警察組織に潜り込んでいたアンドロイド。
リックに処分された最初の一体。
○ルーバ・ラフト
有名なオペラ歌手だが、実はアンドロイド。
カンプフ検査を巧みにかわし、リックの追跡を逃れるも、ほかの捜査官に処分される。
○ガーランド
警察組織を構築し、そのトップになりすましているアンドロイド。
リックをおびき寄せるも、部下の賞金稼ぎに処分される。
○三人のアンドロイド
プリス、ロイ、アームガードの三体は、最後に残ったアンドロイド。
アパートでリックを待ち受けるも、全員処分されてしまう。
○J・R・イジドア
精神判定テストにひっかかり、一生地球を出られない最下層の人間。
彼の視点とリックの視点が交互に物語は進んでいく。
○ウィルバー・マーサー
作中の人々がすがる人類のための宗教・マーサー教の教祖。
○バスター・フレンドリー
有名な人気コメンテーター。
マーサー教に反対するアンドロイドでもある。