梶井基次郎

梶井基次郎『檸檬』あらすじ&レモンで丸善を爆発させた意味とは?

2023年10月4日

『檸檬』とは?

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」という有名な一文から始まる『檸檬』は、梶井基次郎の代表的な作品でもあります。

ここでは、そんな『檸檬』のあらすじ・解説をまとめました。

檸檬で丸善を爆発させた理由や、「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?について深掘りしていきます。

『檸檬』のあらすじ

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。

以前は私を喜ばせたどんな美しいものも辛抱がならなくなったので、私は街から街を浮浪し続けていた。

なぜだかその頃、私はみすぼらしくて美しいものに強く惹きつけられたのを覚えている。

壊れかかった家だとか、汚い洗濯物だとか。あるいは売られている花火や、びいどろのおはじきなど。

そのうちの一つに趣のある果物屋があって、私はいつになくその店で檸檬を買った。

始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んできて、私は街の上で非常に幸福であった。

生活がまだ蝕まれていなかった以前に私の好きだった所は、例えば丸善だった。

オードコロンや洒落た切子細工、ロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶などを見るのに、私は小一時間を費やすこともあった。

今の私にとっては重苦しい場所にすぎなかったが、そんな丸善にも、檸檬があれば易々と入れるように思えた。

私は丸善に入り、憂鬱な気持ちはやはり起こってきたものの、檸檬の存在を思い出すと軽やかな昂奮が帰ってきた。

私は鮮やかな画本を積み上げ、その上にそっと檸檬を乗せた。

そして不意に第二のアイディアが起こった。

ーそれをそのままにしておいて私は、何食わぬ顔をして外へ出る。ー

私は変にくすぐったい気持ちがした。

丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。

そして私はすたすた出ていった。

『檸檬』ー概要

物語の中心人物 私(歳)
物語の
仕掛け人
檸檬
主な舞台 京都・丸善
時代背景 近代
作者 梶井基次郎

『檸檬』ー解説(考察)

「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?

「えたいの知れない不吉な塊」とは『檸檬』に出てくる有名なフレーズです。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうかー酒を飲んだあとに宿酔があるように、毎日飲んでいると宿酔いに相当した時期がやって来る。それが来たのだ。

梶井基次郎『檸檬』新潮社,p8

「焦ったときや、嫌悪したときに感じるような胸の重み」これを「えたいの知れない不吉な塊」と言っているわけですね。

梶井基次郎は結核になり、31歳という若さで亡くなりました。

しかし、こうした病気によって胸の重みを感じているわけではないと、作中で明言しています。

結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。

梶井基次郎『檸檬』新潮社,p8

そのため、作者である梶井の病状に紐づけて「えたいの知れない不吉な塊」を考えるのではなく、本文の通り「焦ったときや、嫌悪したときに感じるような胸の重み」として純粋に捉えることが大切です。

「丸善」と「壊れかかった街」の対比〜価値と無価値の間で〜

そんな「えたいの知れない不吉な塊」によって、「私」の好みは変わってしまいます。

下記は「私が好きだったもの」と「私が好きになったもの」の一覧です。

好きだったもの 好きになったもの
美しい音楽 壊れかかった街
美しい詩の一節 汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通り
丸善(書籍・雑貨の販売店) 安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束
洒落た切小細工 箱に詰まっている鼠花火
ロココ趣味の香水瓶 ビイドロでできたおはじき
キセル・煙草 南京玉(ビー玉)を嘗めること
小刀 寺町通にある趣きある果物屋
画本 檸檬

「丸善」と「壊れかかった街」は、価値あるものと無価値なものの象徴として対比的になっていることが分かります。

「私」がかつて好きだったものは、いわゆる高級な趣味のもので、インテリや上流階級の嗜好品といえます。

それらは全て文化のなかで作られ、また高められたものであり、その価値も文明によって「良い」とされたものです。

対して「私」が今好きなものは、比較的低俗なもので、庶民の生活に寄り添ったものです。

それらは評価の対象にならないばかりか、通常なら無価値なものとして見過ごされます。

しかし「私」は、そんな「壊れかかった街」や「檸檬」を見ることで、焦燥感や嫌悪感が安らぐのです。

結局私はそれを一つだけ買うことにした。(中略)始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされるー或いは不審なことが、逆説的な本当であった。

梶井基次郎『檸檬』新潮社,p13

これは、「不吉な塊」の源でもある焦燥感や嫌悪感が、無価値な嗜好品を見ることで和らぐことを意味します。

逆にいえば、この「不吉な塊」は、価値で固められた高級な趣味の中に生きることが原因で生まれているとも考えられるわけです。

  • 好きだったもの=高級な嗜好品=「不吉な塊」の原因
  • 今好きなもの=低級な嗜好品=心が安らぐもの

こうして考えると、主人公が取ったラストシーンの「檸檬で丸善を爆発させる」という想像は、全く不自然でも、怪奇的な行動でもないことが分かります。

主人公はなぜ檸檬で丸善を爆発させたか?

主人公の「私」が檸檬で丸善を爆発させた理由は、自分の心を安らげてくれる「檸檬」で、「不吉な塊」の源泉である丸善を吹き飛ばしたいと考えたからです。

象徴的な言い方をすれば、価値あるとされるものが無価値とされるものに吹き飛ばされる、そのことに心の安らぎを見たからでしょう。

『檸檬』は梶井基次郎が23歳の学生時代に書かれたもので、1925年に「青空」という同人雑誌(創刊者は梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の三名)に掲載された作品です。

文壇のメインストリームではないところで文学活動をしていたことを考えると、「私」の行動原理にも重なるところがあるように思います。

『檸檬』の元になった作品

梶井基次郎の『檸檬』は、詩である「秘やかな楽しみ」が元となっています。

一見して分かりますが、ほとんど小説『檸檬』と同じです。

「秘やかな楽しみ」

一顆の檸檬を買い来て、
そを玩ぶ男あり、
電車の中にはマントの上に、
道行く時は手拭の間に、
そを見 そを嗅げば、
嬉しさ心に充つ、
悲しくも友に離りて、
ひとり 唯獨り 我が立つは丸善の洋書棚の前、
セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、
マチス 心をよろこばさず、
獨り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、
秘やかにレモンを探り、
色のよき 本を積み重ね、
その上にレモンをのせて見る、
ひとり唯ひとり数歩へだたり、
それを眺む、美しきかな、
丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
ほゝえまいて またそれをとる、冷さは熱ある手に快く
その匂いはやめる胸にしみ入る、
奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン
企らみてその前を去り
ほゝえみて それを見ず、

梶井基次郎『梶井基次郎全集第一巻「秘やかな楽しみ」』筑摩書房,p274

この詩は1922年頃に作られたものであり、当時梶井は21,2歳でした。

しかし、このまま現在の『檸檬』になるのではありません。

1924年、「檸檬」という断片が小説『瀬山の話(仮題)』に入れられ、ここで『檸檬』の原型とも言える散文が出来上がります。

そして同年に、『瀬山の話』の挿話としてあった「檸檬」を、自身らが創刊する「青空」という文芸誌に『檸檬』として発表しました。

詩「秘やかな楽しみ」→断片「檸檬」→小説『瀬山の話』→小説『檸檬』

こうした経緯で現在の『檸檬』は誕生しています。

『瀬山の話』との比較

『瀬山の話』から抜き出された『檸檬』ですが、内容は改稿されているので多少の違いがあります。

『檸檬』の方が構造的な対比が、よりはっきりとしています。

また、『瀬山の話』では「丸善を爆発させる」という「アイデア」が描かれますが、『檸檬』では「想像」として描かれます。

つまり、主人公の行動や感情がより積極的になっているのが『瀬山の話』で、『檸檬』ではそこが抑えられている違いがあります。

先に『檸檬』の、次に『瀬山の話』のラストシーンを引用します。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」

梶井基次郎『梶井基次郎全集第一巻「檸檬」』筑摩書房,p13

次に起った尚一層奇妙なアイデヤには思わずぎょっとした。私はそのアイディアに惚れ込んでしまったのだ。
私は丸善の書棚の前に黄金色に輝く爆弾を仕掛に来たー奇怪な悪漢が目的を達して逃走するそんな役割を勝手に自分自身に振りあてゝ、ー自分とその想像に酔いながら、後をも見ずに丸善を飛出した。あの奇怪な嵌込壺にあの黄金色の巨大な寳石を象眼したのは正に俺だぞ!私は心の裡にそう云って見て有頂天になった。道を歩く人に、
その奇怪な見世物を早く行って見ていらっしゃい。と云い度くなった。今に見ろ、大爆発をするから。ー

梶井基次郎『梶井基次郎全集第一巻「瀬山の話」』筑摩書房,p394

『瀬山の話』は語り手が顔を覗かせてくる(読者に語りかけてくる)ので、雰囲気の違いもあります。

個人的な印象では、『檸檬』の方がスッキリとまとまっていると感じます。

『檸檬』は梶井基次郎の実体験か?

『檸檬』は梶井基次郎の実体験がふんだんに盛り込まれていると考えられます。

梶井と同じく文藝誌「青空」の創刊者でもある中谷孝雄は、回顧録で次のように書いています。

私たちは散歩の途中、よく丸善へ立寄ったものであった。しかしここでも私は、ただざっと新刊の小説類に眼をさらすだけであったが、梶井はセザンヌだとか、ゴッホだとかルノアールだとか、そういった画集を棚から抜き出して、丹念に眼を通していた。(中略)また時とすると彼は、西洋雑貨の売場の方へいって、万年筆だとかナイフだとか鉛筆だとかポマードだとか香水だとか、そんなものを一つ一つ丹念に見てまわっていた

中谷孝雄『梶井基次郎』筑摩書房,p40

これは、『檸檬』に登場する「私」の趣味趣向や行動に酷似していると言えるでしょう。

また、梶井がレモンを持ち歩いていたこともあったようです。

ある日私の家へやって来た梶井は、袂から一個のレモンを取出して私にくれたが、それは妙に薄汚れがして、冴えたレモン・エローではなく、形もいくらか崩れていた。梶井はそのレモンを私に渡す際、
「これ食ったらあかんぜ」
といったが、私はその言葉にふと侮蔑を感じ取り、受取りはしたもののすぐ机の上に投げ出してしまった。
(中略)
梶井が処女作「檸檬」を発表したのはそれから又ずっと後のことであるが、私はそれを読んで少なからず衝撃を受けざるをえなかった。

中谷孝雄『梶井基次郎』筑摩書房,p68

こうしてみると、『檸檬』は梶井基次郎の私小説的な作品であることが分かります。

中谷孝雄が「私はこの作品に書かれていることは大抵、見たり聞いたりして知っていた」と言っていることからも、『檸檬』は梶井基次郎の実体験に基づく作品だと考えて良いのではないでしょうか。

『檸檬』ー感想

丸善で並べた画本と檸檬の色彩

ラストシーンで、「私」は丸善にある画本を「新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったり」しながら並べ替えます。

檸檬の「レモンエロウ」が最も映えるようにデザインしているわけです。

私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

梶井基次郎『檸檬』新潮社,p13

『檸檬』は絵画の要素が色濃く出ている作品でもあり、作中には画家であるドミニク・アングルの名前が登場します。

また、『檸檬』の草稿となった「秘やかな楽しみ」という詩にも、セザンヌ、レンブラント、マチスといった画家の名前が出ています。

つまり、主人公の「私」は絵画に造詣が深い人物であり、自身が積み上げた画本のコントラストにも、それなりの注意が払われていることでしょう。

にも関わらず、彼は自身のアートとも言える積み上げた画本や檸檬を、想像の中で爆発させてしまうのです。

ただ単に檸檬を画本の上に置いて帰るだけであれば、彼の芸術は権威的な美のなかに埋もれてしまいます。

自身の芸術をもって丸善という象徴を破壊することで、どちらも無に還してしまう。

そうして退廃的な雰囲気が、『檸檬』という作品の魅力になっているように感じます。

以上、『檸檬』のあらすじ・解説でした。

この記事で紹介した本