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『海のいのち』あらすじ&クエを殺さなかった理由を解説!

『海のいのち』とは?

『海のいのち』は、立松和平による絵本作品です。

父親の背中を追って漁師を目指す太一の成長が、テンポの良い文体で描かれています。

ここではそんな『海のいのち』のあらすじ&解説をまとめました。

『海のいのち』のあらすじ

太一の父も、そのまた父も、代々漁師として海に生きてきました。

父は立派な漁師で、大物を獲っても自慢せず、ただいつも「海のめぐみだからなぁ」と言うだけです。

太一はそんな父に憧れ、いつかは自分も父みたいな漁師になりたいと願うのでした。

ある日、父が夜になっても帰ってきませんでした。

瀬の主である大きなクエを仕留めようとして、海の中でこと切れたのでした。

太一は大きくなり、与吉じいさんに漁を教えてもらおうと弟子入りします。

与吉じいさんは一本釣りの漁師で、「千びきにーぴきでいいんだ。」という教えをずっと太一に聞かせました。

何年か経つと、太一は村一番の漁師になり、与吉じいさんは亡くなります。

嵐さえもはね返す屈強な若者になっていた太一は、クエを仕留めようと思い、モリを持って素潜りを始めます。

一年が経ったある日、とうとう瀬の主のクエを見つけました。

しかしクエはじっとこちらを見つめるだけで、襲ってくる気配がありません。

太一は槍を突きつけたままじっと考えていましたが、ふっと笑うと、 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」といい、クエを殺さないことにしました。

やがて太一は結婚し、子どもを4人も持ちました。

そして彼は、村一番の漁師であり続けたのでした。

『海のいのち』ー概要

物語の中心人物 太一(歳)
物語の
仕掛け人
おとう、与吉じい
主な舞台
作者 立松和平

『海のいのち』ー解説(考察)

『海のいのち』は太一の成長譚

『海のいのち』は、主人公・太一の成長譚です。

父に憧れて漁師を志した太一が、漁師の仕事を覚えて村一番の漁師となり、父の死を乗り越えることで成長・成熟する過程が描かれます。

彼は父親の言葉と、与吉じいの言葉で成長していきます。

父親の言葉「海のめぐみだからなあ。」

太一はこの「海のめぐみだからなあ。」という言葉を聞いて育ちました。

大きな魚が獲れても自慢せず、「海のめぐみだからなあ。」と言う父親。

十日間も魚が獲れなかったときも「海のめぐみだからなあ。」と言う父親。

そんな父親の海に対する態度が、小さい太一にはカッコよく映っていたのでした。

与吉じいの言葉「千びきにーぴきでいいんだ。千びきいるうちーぴきをつれば、ずっとこの海で生きていけるよ。」

父親を亡くした太一は、与吉じいのもとで漁師になる修行をします。

彼は「千びきにーぴきでいいんだ。」という言葉を太一にかけ続けます。

たくさん魚を獲らないこと、海とともに生きることを教えていたのでした。

太一は意外にも、この与吉じいの方の教えを生涯守り続けることになります。

継承と変化〜父と与吉じいの対比構造〜

『海のいのち』は、「継承」というテーマが冒頭で示されています。

父もその父も、そのさきずっと顔も知らない父親たちがすんでいた海に、太一もまたすんでいた。(中略)
「ぼくは漁師になる。お父といっしょに海にでるんだ。」
子どものころから、太一はこういってはばからなかった。
父はもぐり漁師だった。

立松和平『海のいのち』ポプラ社,p2

代々漁師だった家庭に生まれ、自らも漁師になりたいと熱望する太一。

父親のしていたもぐり漁(海にもぐってモリで魚をついたり、貝類や海藻を獲る漁法)で一緒に海に出たいと考えていました。

しかし、父は死んでしまい、代わりに与吉じいに弟子入りすることで、彼が身につけたのは一本釣りの漁法でした。

つまり父の死によって、太一の継承される漁法が、「もぐり漁」から「一本釣り」へと変わったのです。

この変化によって、太一の価値観も変わっていくことになります。

父と与吉じいの対比

太一の父親と与吉じいは対比的な存在です。

以下の表では二人の対比的なポイントをまとめました。

父親 与吉じい
漁法 素潜り 一本釣り
漁法の性格 自ら能動的に獲物を探す 糸を垂らして受動的に待つ
年齢 若い 老人
血筋 実父 他人
死に方 海の中 陸の上
言葉 海のめぐみだからなあ(コントロール不可能) 千匹にー匹でいいんだ(コントロール可能)

父親も与吉じいも、同じ海に生きる者としては共通点があります。

しかし、個別の項目を見ていくと、意外と対比的なことろも多いです。

言葉などもそうで、一見似たようなことを言っているように思いますが、本質は少し違います。

そして最終的に太一が身につけたのは、与吉じいの漁法であり、与吉じいの言葉でした。

下記は終末部の一文です。

太一は村一番の漁師でありつづけた。千匹にー匹しかとらないのだから、海のいのちはまったくかわらない。

立松和平『海のいのち』ポプラ社,p32

これは、与吉じいの「千びきにーぴきでいいんだ」という考えを踏襲していることを示します。

「父もその父も、その先ずっと顔も知らない父親たちが住んでいた海」に生まれた太一ですが、その血筋にこだわらず、自分の良いと思ったことを選択し、取り入れ、運命を変えていったところに、『海にいきる』の面白さがあります。

そしてその変化は、「おまえがお父の死んだ瀬にもぐると、いついいだすかと思うと、わたしはおそろしくて夜もねむれないよ。」と不安がっていた母親にも表れています。

やがて太一は村の娘と結婚し、子どもを四人そだてた。男と女とふたりずつで、みんな元気でやさしい子どもたちだった。母はおだやかでみちたりた、美しいおばあさんになった。

立松和平『海のいのち』ポプラ社,p32

つまり、太一は「海で生きる」ことを継承しつつも、変化を柔軟に取り入れたことで、家族としての幸せを掴んだという構造です。

この太一の変化を抑えておけば、終盤で太一がクエを殺さなかった理由も分かりやすくなります。

クエを殺さなかったのはなぜか?

太一がクエを殺さなかったのは、与吉じいの「千匹にー匹でいいんだ」という教えを心に刻んでいたからです。

瀬の主のクエは、父親を殺した仇として、太一のイメージにこびりついていました。

しかし、クエはモリを持った太一を前にしても、全く動こうとしません。

瀬の主はまったくうごこうとはせずに太一を見ていた。おだやかな目だった。この大魚は自分に殺されたがっているのだと太一は思ったほどだった。これまで数かぎりなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのははじめてだ。

立松和平『海のいのち』ポプラ社,p28

ここで太一の頭には、「父はこんなにおとなしい魚を殺そうとしたのか・・・」という思いがよぎります。

そして与吉じいのセリフ「千匹に一匹でいいんだ」を思い出し、不必要な漁(それも父の仇討ちという復讐的な漁)に歯止めがかかるわけです。

もちろん、父親の死の原因となったクエを前にして、さらにはこれを殺さないと立派な一人前の漁師にはなれないという思いもあり、様々な感情が胸中を駆け巡ったことは想像に難くありません。

「おとう、ここにおられたのですか」の意味

それから太一は次のように言います。

水の中で太一はふっとほほえみ、ロから銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエに向かってもうー度えがおを作った。
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。大魚はこの海の命だと思えた。

「おとう、ここにおられたのですか」というのは、瀬の主のクエに父親を重ねている表現です。

そして、クエに父親を重ねたとき、父親が「海のいのち」となっていることを悟り、幼かった頃の夢である「おとうといっしょに海に出るんだ」を思いがけず叶えたために、太一は「ふっとほほえ」んだわけです。

一本釣りの道をゆき、「千匹に一匹でいい」と考えるようになった自分と、素潜りでクエを獲りにいった父親を相対化しているこの場面。

逆に言えば、父親は瀬の主であるクエを「海のめぐみだ」と思ったからこそ獲りにいったのであり、そこには他の欲望はありません。

あるのはただ海に対する考え方だけで、その考え方が命運を分けはしましたが、ただそれだけのことです。

海のいのちになるのが早いか遅いかなだけで、そこに優劣はないでしょう。

生涯話さなかった理由とは?

それでは、なぜ太一はクエにもりを打たなかったことを、生涯誰にも話さなかったのでしょうか。

巨大なクエを岩の穴で見かけたのにもりを打たなかったことは、もちろん太一は生涯だれにも話さなかった。

これは、目の前に獲物がいたからには、漁師としてクエを獲ろうとしなければならなかったからです。

ましてや父の仇として知られているクエなので、誰が何を言い出すか分かりません。

また、瀬の主のクエを前にしたあのときの太一の感情は、人に話しても伝わるものではないでしょう。

総合的に考えて、人に話しても利点がないし、誰かに話すことでもないと判断したため、生涯誰にも話さなかったのでしょう。

父親譲りの寡黙さとも捉えられるので、継承というテーマにも少しだけ関わっているようにも思います。

『海のいのち』ー感想

父親を超えるということ

『海のいのち』は立松和平による「いのち」の絵本シリーズで、ほかには『山のいのち』や『畑のいのち』『川のいのち』などがあり、それぞれで雰囲気が違います。

全て読みましたが、個人的にはこの『海のいのち』が一番好きです。

僕も7歳のときに、両親の離婚で父親と離れて暮らすようになりました。

大人になってから思ったのは、父親の超えかたが分からないということ。

思春期にぶつかり合った経験もなければ、踏み入った話をしたこともありません。

父親よりも学歴が高くなっても、父親より収入が高くなっても、父親を超えたという実感は全く湧かないんですね。

どこか大人になりきれない気分のまま大人になり、自分に子どもが生まれたあたりで、何も直接的に父親を超えなくて良いのだとふと悟ったことを覚えています。

自分は自分だし、父親は父親だということを認めるだけで良い。

離れたのが幼い頃だったので、”父親”というイメージだけが残っていたのでしょう。そんな簡単なことに気がつくのにすら、かなり時間がかかりました。

『海のいのち』の太一も、父親を越えようとしてクエを探しますが、いざ見つけるとモリを打てません。

この気持ちはとても分かります。

もし仕留めることができたとして、それが父親を超えたことになるのか?

優劣を競い合うことに何の意味があるんだろう?

その問題に突き当たった彼に残された答えは、自分自身を自分で認め、父親のこともそのまま認めるということでした。

もっと早くに出会っておけば、僕の人生も変わっていたかもしれないと思う作品です。

以上、『海のいのち』のあらすじ&解説でした。