中島敦『悟浄歎異(ごじょうたんに)』あらすじ&解説&感想!沙悟浄は孫悟空から何を学ぶのか?

『悟浄歎異』とは?

『悟浄歎異』は、『悟浄出世』に次ぐ中島敦の西遊記シリーズ後編です。

悩める主人公の悟浄が、孫悟空をはじめとする三蔵法師一行の尊敬する点を挙げていく物語です。

ここではそんな『悟浄歎異』のあらすじ・解説・感想をまとめました。

『悟浄出世』のことを先に知りたいという方は下の記事をどうぞ。

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中島敦『悟浄出世』のあらすじと解説&感想まとめ!中島敦の西遊記!

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-あらすじ-

三蔵法師一行は、昼ご飯のあとで一休みしています。

悟空は猪八戒に変化の術を教えていて、飲み込みの悪い猪八戒はいつも怒られています。

主人公の悟浄は、そんな様子をみて笑っています。

悟浄は悟空を真の天才と思っており、性格・生き方、全て非が無い完璧な人物として認めています。

三蔵法師は内なる貴さが外の弱さに包まれているところが悟浄にとって魅力的であり、

猪八戒の享楽家的なこの世を愛している生き方には敬服してしまいます。

つまり、悟浄は三蔵法師一行のことをおしなべて尊敬しています。

そうした一方で、「なぜこんなにも俺はだめなのか」といつも考えてしまいます。

その日の夜。眠ることが出来ない悟浄は、星空をみて「永遠」について考えていました。

するとふと、星空に三蔵法師のあわれみの眼差しが重なって見えて、三蔵法師がいつも永遠をみているような気がしました。

悟浄は起き上がって三蔵法師の寝顔を見、静かな寝息を聞きます。

そうしているうちに、悟浄は心の奥に、何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきました。

・『悟浄歎異』の概要

主人公 沙悟浄
物語の
仕掛け人
三蔵法師一行
主な舞台 中国
作者 中島敦

-解説(考察)-

・沙悟浄と孫悟空の対比

『悟浄歎異』は、『悟浄出世』の続編です。

『悟浄出世』では、「自分とは何か?」といった問題について悩む悟浄が描かれます。

そしてその結末は、観音菩薩の言った「三蔵法師一行と旅をして、孫悟空を見習え」というものでした。

そうしたことから、『悟浄歎異』では沙悟浄から見た孫悟空についての考察が多く書かれています。

悟浄の手記からみえる孫悟空

  • 天才で自信に溢れ無邪気な性質
  • 自然の美しさに芯から感動する心
  • 芸術的でさえある闘う姿
  • 自然と身についている実用的な教養
  • 因襲も世間的名声などにもぶれない自己

これらのことをまとめると、ようするに孫悟空は自己に興味がなく、本性のままに生きていることで、飾り気のない魅力をそなえています。

外にある知識で自我問題を解決しようとする悟浄の眼に、その姿が美しく映るのは当然だといえます。

現在の悟空が、俺たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!

こうして沙悟浄が孫悟空を尊敬すればするほど、

  • 内に力を求める悟空
  • 外に力を求める悟浄

という二人の生き方が対比的に強調され、悟空の強さと悟浄の弱さが浮かび上がる構造になっています。

それでは、結局悟浄は悟空から何を学んだのでしょうか?

次の章では悟浄が学んだことを考察していきます。

・悟浄は何を学んだのか?

ここでは『悟浄歎異』で悟浄が学んだ、

  • 内にあるものを信じて自己をもっとさらけ出すこと
  • 自己を取り巻く永遠という概念に対する姿勢

二点について、一つずつ解説していきます。

それではみていきましょう。

・内にあるものを信じて自己をさらけ出すこと

『悟浄歎異』で悟浄が学んだひとつのことは、

  • 内にあるものを信じて自己をもっとさらけ出していかねばならない

ということです。これは先ほどから見てきたとおりで、孫悟空という存在を知ったことで学びます。

もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどんられられられ、こちらからも罵り返して、身をもってあのからすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

『山月記』の李徴も「尊大な自尊心」と「臆病な羞恥心」によって、破滅の道を進んでしまいます。

臆することなく、自ら進んで自己をさらけ出していく。

これが出来なかったから、李徴は虎になったのです。そして、沙悟浄もまだできていません。

沙悟浄は、三蔵法師も悟空もそうしたことが出来ているから天才だと言います。

二人の間に(中略)たった一つ共通点があることに、は気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做していることだ。

「所与」とは、もともと与えられたもの。すなわち、母親が子を守るときに見られるような、思考ではない「本性(ほんせい)」を指す言葉です。

簡単にまとめると、

「三蔵法師と悟空の二人の生き方をみると、本性を肯定して生きている」

と悟浄は言っています。

悟浄はこれまで、本性ではなく、外から得た知識で自己を考えてきました。

ですので、本性を肯定して生きる二人の性質を尊敬し、学ぶべき点であると認めています。

・「永遠」という概念に対する姿勢

悟浄が学んだもうひとつのことは、

  • 永遠という概念に対する姿勢

についてです。

ラストの場面で、悟浄は夜空を見ながらこう思います。

星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手だ。

その夜空に流れ星が瞬いたとき、悟浄はなぜか三蔵法師のあわれみの眼を思い出します。

そして、流れ星と師父の眼差しを重ねた理由をこのように考えます。

師父はいつも永遠を見ていられる。(中略)いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智ちえ愛情なさけや、そうした数々のきものの上に、師父は絶えず凝乎じっあわれみの眼差いでおられるのではなかろうか。

宇宙の果てや星々の年齢などを考えると、自分という存在がちっぽけに感じることがあります。

おそらく悟浄もそうした理由で、星をみるのが苦手だったのでしょう。

しかし、三蔵法師は永遠や宇宙と言った大きな枠組みの中での自己を度外視しています。

彼はただ永遠をみて、そのなかに起こる滅びという現象をありのままに見つめ、あわれみの眼差しを向けるのです。

そうした三蔵法師の態度に、悟浄は「永遠」に対する姿勢を得た気がします。

星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣にておられる師父の顔をき込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。

最後の一文からは、悟浄がそうした三蔵法師の姿勢に肯定的な感情を寄せていることが読み取れます。

このようなことから、悟浄は「永遠」という概念に対する姿勢を三蔵法師から学んだのではないでしょうか。

 

ここでは以上の二点を、悟浄の学んだこととして考察してきました。

この『悟浄歎異』は「悟浄の手記」という形が取られています。

手記から分かることは、悟浄はまだ旅の途中であり、納得のいく答えは出ていないということです。

しかし、三蔵法師一行に出会うことによって、確実に悟浄は変わりました。

旅が続く限り、悟浄は学び続けるのではないでしょうか。

-感想-

・ラストの一文で、はじめは男色的な物語かと思った。

「心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。」

『悟浄歎異』のラスト、考察のところでも引用した一文。

これは沙悟浄が三蔵法師の寝顔を見ながら感じたことですが、少し男同士のロマンスの香りが漂っているとも読めてしまいます。

「あれ、急にそういう感じ?そういえば猪八戒も男色がどうこう言ってたしなあ、、、」

となった方は僕だけではないはず。

でもこの文章はおそらく、前半に出てくる孫悟空の描写に対応しています。

彼(孫悟空)のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信にちてくる。彼は火種。世界は彼のために用意された。世界は彼によって燃されるために在る。

つまり、悟浄の心の中にも「自信」という火種がついたことを表している文章だと考えられます。

とはいえ、男同士の絆というものは多少男色的なところを含んでいるので、そう読めてしまうのも仕方がないといえば仕方がないです(まあどっちだっていいですね)。

それよりも僕が気になったのは、悟浄が心に点いた火種を自分で認識していることです。

以下は悟浄の言葉です。

「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」

これを読むと、ラストの

  • 「心の奥に何かがポッと点火された」

という一文が、悟浄の主観的になりきれない悲しさを表しているようにも思えます。

悟浄にとってのハッピーエンドは、悟浄の心に火が点いたことを読者だけは気がついて、悟浄自信は気がつかない。そうした描写だったはずです。

しかし、そうではない。

このような観点に立つと、悟浄は李徴と同じ結末をたどるのではないか?という想像を膨らませてしまいます。

「不成長嘯但成嘷 (長嘯を成さずただ嘷を成す)」

詩家を夢見ているわけではないので悟浄が虎になることはないと思いますが、この旅が終わったあとどうなってしまうのか?

考えてみるのも面白いかもしれません。

以上、『悟浄歎異』のあらすじと考察と感想でした。

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