『推し、燃ゆ』を読んだ。
20歳で文藝賞を受賞した宇佐見りんの二作目で、もしかすると第164回芥川賞候補になるかもしれない、という読後感だった。
前作の『かか』は語り手の方言が特徴的で、どちらかと言えば文体や構成が光っていたけれど、今作はどちらかと言えば内容や設定が魅力的だ。
ここではそんな『推し、燃ゆ』の感想を書いていく。
▼一作目の『かか』の感想はこちら。
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『推し、燃ゆ』の感想
・物語の基盤
「推し」というのはいわゆるオタク用語で、一番好きなアイドルを指すときに「○○ちゃん推し」のような形で用いられる。
主人公は少し物忘れの多い女子高生で、アイドルグループ「まざま座」の上野真幸を推している。
彼女は上野真幸の「ガチ勢」であり、グッズの収集やCDの大量購入はもちろん、上野真幸の発言には全て目を通し、そこから上野真幸という人物を考察するブログまで運営している、かなりコアなファンである。
そんな主人公の物語『推し、燃ゆ』は、こんな一文から始まる。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』
素敵な冒頭だと思う。
燃える。つまり炎上したのだ。
上野真幸の所属するアイドルグループは規模が大きい。国内トップではないけれど、そこそこの認知度はあるグループだ。それは「まざま座」総選挙の得票数が5位で1万票ほどだったことから分かる。(ちなみにAKB総選挙の1位は10万票を超えるくらい。)
主人公は「推すこと」だけを生きがいにしてきた人物なので、この出来事をきっかけに、彼女の生活も少しずつ変化していく。
・『裸一貫!つづ井さん』を思い出した
少し脱線するけれど、『裸一貫!つづ井さん』という漫画をご存じだろうか。
20代後半のOLで腐女子のつづ井さんが主人公の漫画なのだけど、絵の適当さも相まってかなり面白い。
そんな私も気づけば20代後半・・・
同級生の結婚&出産ラッシュ・・・
職場などでは日々「いつまでそんな感じなの?」「ちゃんと将来考えなよ~」と言われ、私は・・・私は・・・
特にな~んとも思ってませ~ん
ピッピロピ~~つづ井『裸一貫!つづ井さん』第Ⅰ巻
彼女は現実を豊かにしようとしない。なぜなら非現実の世界で満足しているからだ。
だけど、彼女たち(つづ井さんのほかにオタク女子が数名登場する)の楽しそうな様子を見ていると、オタクってかなり素晴らしいんじゃないか!?と思わせられるところがある。
好きなものを心の底から愛することができるパワー(それも一生を捧げられるほどのパワー)が、僕にはまぶしく見えたのだ。
『推し、燃ゆ』も本質的には同じ話だ。主人公がかなりのオタクで、「推し」に人生を捧げている。
違うところは、『推し、燃ゆ』の主人公の方が、つづ井さんたちに比べてずっと孤独という点。ここがやはり小説らしさ(というか純文学らしさ?)を醸し出していると思う。
後は、人間でかつ異性のアイドルを病的に推しているというところも、少し違うかもしれない。(つづ井さんたちはアメコミのオタクだったり、同性のアイドルオタクだったりする。)
・人間のアイドルを「推す」ということ
人間のアイドルは虚構であると同時に、現実世界に間違いなく存在する非虚構でもある。
ファンはアイドルという虚構を崇め、尊び、生きがいにする。けれど、アイドルも人間だ。当然老いていくし、スキャンダルなどもある。
そこが人間のアイドルの魅力でもあり、同時に難しさでもあるのだろう。(アニメであれば、どれだけ時が経っても虚構として存在し続けてくれる。いつまで経ってもサザエさんはサザエさんだし、のび太君はのび太君だ。)
だから「○○ロス」といったことにもなる。でもそれは、人間のアイドルを心から推すということに付きまとう、必然的な苦行なのだ。
・主人公とSNS
この物語で特徴的なのは、主人公とSNSの関係だろう。(この特徴は『かか』にも見られるので「作者の特徴」と言ってもいいかもしれないが、まだ2作目なので様子を見る。)
僕は(急に僕の話になるが)1994年生まれで、中高生の頃からSNSは生活の一部としてあった。
だけど、SNSはあくまでも現実を拡張するためのツールで、アカウントはリアルな僕個人と密接に繋がっていて、フォローしている人も知り合いばかりだった。
一方で、『かか』や『推し、燃ゆ』の主人公は、僕とSNSの使い方がちょっと違う。
いわゆる「趣味アカ」がベースで、そこでフォローしている人の顔はほとんど誰も知らない。でも、顔を知らずともそこにはかなり仲の良い人もいるし、共通の話題で盛り上がったりもする。
リアルには干渉しない、SNS上のみの人間関係の形を当たり前のように構築しているのだ。
・SNS上のみの関係は、ファンとアイドルの関係に似ている
SNSでは、アカウントで発信されている断片的な情報から相手の全体像を判断し、自分の中で相手のキャラクターを作りあげる。
それは、ファンとアイドルの関係にも似ている。
アイドルが見せるオフィシャルな部分だけで、ファンはアイドルの全体像を勝手に想像して、自分の中でのアイドルを作りあげる。まさしくidol(偶像)だ。
もちろんリアルな人間関係でも、少なからず相手の偶像を見ているし、自分も偶像を見せているだろう。(生身で生きると何かあったときにダメージが大きいが、偶像を作れば代わりに被ってくれる。)
でも、『人間失格』の大庭葉蔵が竹一に「わざ、わざ」とやられたように、僕らは作りあげた偶像を見破られる危険性とともに生きている。だから、大げさな仮面を付けることもあまりしない。
その点、SNSでの人間関係やファンとアイドルの関係などは、二者の間に絶対的な不可侵領域があるから、どんな自分でも演じられる。それは自分とかけ離れた偶像でもいいし、反対に生身の自分でもいい。
こうした現代人の偶像性についての鋭い視点を、宇佐見りんという作家の作品からは感じるのだ。
・タイトルの多義性
最後に、この『推し、燃ゆ』というタイトルについて触れておきたい。
さっきも書いたように、これは推しが炎上することを表したタイトルになっている。
だけど、この作品を最後まで読むと、「燃ゆ」という言葉に多義性があることが分かる。
もちろん詳しくは言わないけれど、主人公は「燃える」ということにある経験を持っている。
その点を踏まえてタイトルを見返すと、推しが炎上するという単純なタイトルではないことに気づく。言葉の広がりを感じる、秀逸なタイトルだと思う。
そんな宇佐見りんが3作目はどういったアプローチで物語を作りあげるのか、今からすでに楽しみだ。