『山椒魚』とは?
『山椒魚』は井伏鱒二の代表的な短編小説です。
井伏鱒二はデビューしてから死ぬまでの間、何度もこの作品に改訂を加え、最後には大幅な結末の削除を行いました。
岩屋から出られない山椒魚を通して、動物寓話的な世界が繰り広げられます。
ここではそんな『山椒魚』のあらすじ・解説・感想をまとめました。
『山椒魚』のあらすじ
ある岩屋に山椒魚がいた。
彼は大きくなりすぎて、岩屋の中から出られないのだ。
外の世界の小魚を眺めたり、岩屋に小エビが入ってきたりするが、彼の心は晴れ晴れとしない。
鬱々と日々を過ごしているうちに、山椒魚は悪い性質を帯びてきた。
あるとき蛙が岩屋の中に入ってくると、山椒魚は自分の身体で入り口を塞いで、蛙を閉じ込めてしまった。
「一生涯ここに閉じ込めてやる!」相手を自分と同じ状況に追いやることが痛快だったのだ。山椒魚がそう言うと、蛙は凹みに身を隠してこう言った「お前はばかだ」。
一年が過ぎて、二人はずっと言い争いをした。しかし二年が過ぎると、二人は口をきかなくなっていた。
蛙が先に、死にそうになった。山椒魚は、お前は今どう思っているのかと尋ねた。
蛙は答えた。「今でもべつにお前のことをおこってはないんだ」
・『山椒魚』の概要
主人公 | 山椒魚 |
物語の 仕掛け人 |
蛙 |
主な舞台 | 岩屋の中 |
作者 | 井伏鱒二 |
-解説(考察)-
・山椒魚のキャラクター像
『山椒魚』は、岩屋の中で大きくなってしまったために、そこから抜け出すことが出来なくなった山椒魚の話です。
彼の大きくなった部位が
- 頭
であることから、その姿は頭が肥大してしまうほど「理屈的」な人物を連想させます。
山椒魚は実際に、岩屋の中から外の世界の生き物を見て理屈をこねます。
例えば集団で動く小魚を見て、
「なんという不自由千万な奴らであろう!」
と言い、集団の行動を批判します。
また、岩屋に入ってきた小エビには、
「くったくしたり物思いに耽ったりするやつは、莫迦だよ」
と、自分を棚に上げて得意げに言ったりします。
こうした山椒魚の言葉からも、彼の理屈的で高慢な態度が読み取れるでしょう。
そんな彼は次第に「よくない性質」を帯びていき、最後には蛙を幽閉するに至ります。
蛙を閉じ込めた理由は、
- 自分と同じ状態に置くことのできるのが痛快だったから
という身勝手極まりないもので、岩屋での長い年月が彼の精神をひねくれさせたことが分かります。
しかし最後の場面では、「友情を瞳に込めて」蛙にたずねるなど、性根までが悪いわけではなさそうです。
つまり山椒魚のキャラクター像は、
- 理屈屋で、意地悪な、けれども根は悪くない性格
だとまとめることが出来るでしょう。
そんな彼と対になる登場人物に、活発な「蛙」がいます。蛙のキャラクター像は、山椒魚と同じくらい重要です。
次からはそんな「蛙」のキャラクター像を見ていきます。
・蛙のキャラクター像!蛙が怒らなかった理由とは?
蛙は山椒魚に「感動」をもたらす生き物として登場します。
蛙は活発に動き回る、言わばアクティブな爽やか系男子です。
蛙は水底から水面にむかって勢いよく律をつくって突進した(中略)山椒魚はこれらの活発な動作と光景とを感動の瞳で眺めていた
そんな蛙が岩屋の中に入ってきたので、これを閉じ込めた山椒魚の痛快さはひとしおです。
しかし、閉じ込められた蛙は「俺は平気だ」と言い、怒る気配を見せません。
さらに驚くべきことに、それ以降も蛙が感情的になることは物語の最後までないのです。
ここで蛙の様子が分かるように、蛙のが発したセリフを順番に全て紹介しておきます。
- 俺は平気だ
- 出て行こうと出て行くまいと、こちらの勝手だ
- お前は莫迦だ
- お前こそ頭がつかえてそこから出て行けないだろう?
- それならば、お前から出て行ってみろ
- それがどうした?
- 空腹で動けない
- もう駄目なようだ
- 今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ
こうしてみると、蛙が最初から最後まで冷静さを失わない者として描かれていることが分かります。
『山椒魚』という物語は、最後の場面で山椒魚と蛙の「和解」が描かれると言われることが多いですが、蛙のセリフからは決して山椒魚に対して怒っている素振りは見えません。
さらに、最後のセリフである「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」という言葉から、蛙が最初から怒っていないことが強調されています。
それでは、なぜ蛙は山椒魚に対して怒らなかったのでしょうか?
それは、
- 蛙が山椒魚の運命を哀れんでいたから
だと考えられます。
物語の中盤、山椒魚が孤独を強く感じる場面があります。
「ああ寒いほど独りぼっちだ!」
注意深い心の持主であるならば、山椒魚のすすり泣きの声が岩屋の外にもれているのを聞きのがしはしなかったであろう。
この「注意深い心の持主」こそ蛙だったのではないでしょうか。
蛙は意地悪をする山椒魚の心持ちも、山椒魚の悲しみも分かっていた。
だからこそ、山椒魚に閉じ込められても「おこってはいない」態度で接することが出来たのです。
こう考えると、蛙は山椒魚と喧嘩をする相手ではなく、山椒魚を見守っていた相手だと言えます。
このようなことから、蛙が怒らなかった理由は「山椒魚の運命を哀れんでいたからである」と考えられます。
-感想-
・鉱物から生物へ
岩屋の中は山椒魚にとって好ましい場所ではありません。
そこに生えているゼニゴケやスギゴケを、彼は疎んじさえしています。
「植物」や「水」という流動性と、「岩屋」という空間の固定性が物語の中で対比的に描かれ、その中で生物から鉱物へ、鉱物から生物へと移り変わる山椒魚と蛙の様子が面白い物語です。
『山椒魚』といえば最後の場面の削除問題ですが、僕は最後の場面を削除しない元の物語の方が良いと思います。
理由は簡単で、「もう駄目なようだ」という蛙のセリフがなぜか好きだからです。
短い物語であるがゆえに、簡単に何度も読めてしまいます。
日本文学でも必ず読んでおきたい小説の一つでしょう。
以上、『山椒魚』のあらすじと考察と感想でした。
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