『桜の森の満開の下』とは?
『桜の森の満開の下』は、坂口安吾の代表的な短編小説。
山賊の男が美しい女に出会ったことをきっかけに、世界の様々なことを認識していく物語です。
ここではそんな『桜の森の満開の下』のあらすじ・解説・感想をまとめています。
『桜の森の満開の下』のあらすじ
今は美しいとされている桜の木ですが、江戸時代から前では桜の下では人が狂ってしまう、怖ろしいものだと思われていました。
昔、鈴鹿峠に満開の桜の森があって、旅人はそこを通らなければなりませんでしたが、桜が怖ろしい旅人たちは必死に走って通り抜けていました。
しばらくすると、その山に山賊が住みはじめます。
山賊は通りすがりの人を殺して着物やなんかを奪って暮らしていましたが、彼もまた桜の下に来ると怖ろしい気がするのでした。
あるとき山賊の男は八人目となる女房をさらってきました。都から来た彼女はとても美しかったので、男は彼女の言うことなら何でも聞きました。
女はとてもわがままで、他の女房を男に殺させ、毎日豪華な食事を用意させ、しまいには住処を都に移させます。
都に戻ると女は男に色々な人物を殺してもらい、その首で首遊びにふけりました。
死体の首の肉がただれ、髪は抜け落ち、白い骨になっても女は飽きることを知らず、新しい首を男に持ってこさせるのでした。
さて、都で暮らすようになった山賊ですが、同じことが繰り返される都の暮らしは性に合わず、なつかしい山に戻ろうと考えました。
男がいないと生きていけなくなった女は、一緒に山へ戻ることを認めます。その時期、桜は満開でした。
山へ帰る途中、女をおんぶして歩いていた男が桜の木の下を通りかかると、女の手が冷たくなっていることに気がつきます。振り返ると、女は鬼のような老婆になっているのです。
鬼は男の首を絞めようとしますが、男は必死で抵抗し、鬼を殺します。そうしてふと我に返ると、女が死体となって横たわっているばかりで、鬼の姿はありません。
男は初めて涙を流し、女の死体をもう一度見ると、そこに女の姿はなく、ただ桜の花びらがあるだけです。
そして、桜を掻き分ける男の手も身体も消え、あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。
・『桜の森の満開の下』の概要
主人公 | 男 |
物語の 仕掛け人 |
美しい女 |
主な舞台 | 山→都→山 |
時代背景 | 都のあった昔 |
作者 | 坂口安吾 |
-解説(考察)-
『桜の森の満開の下』は、山賊の変化を軸に物語が進みます。
そんな彼は、3つのことを認識しながら変化していきます。
それは
- 美の認識
- 世界の認識
- 時間の認識
という三つです。
ここではそんな山賊の3つの変化を解説することで、物語を見ていきます。
・山賊の変化1 「美の認識」
物語のはじめ、山賊は山での暮らしに不満も不安もなく過ごしていましたが、攫ってきた美しい女によって価値観を変えられていきます。
たとえば、女の美しさが櫛や着物によって作られていく様を見ると、これまではそんなものに無関心だった山賊が、「こんなものがなア」といって嘆賞するようになります。
彼は模様のある櫛や飾のある笄をいじり廻しました。それは彼が今迄は意味も値打もみとめることのできなかったものでしたが、今も尚、物と物との調和や関係、飾りという意味の批判はありません。けれども魔力が分ります。魔力は物のいのちでした。
このように、美しい女と過ごすことによって、山賊は「美」という価値観を得ていきます。
そしてその「美」は、どこか「桜」と似通っているという点に気がつくのです。
桜は物語で怖ろしいものとして描かれているので、このことからは
- 美の中には怖ろしさが含まれている
という主張を読み取ることが出来ます。
こうした「美」と「怖ろしさ」の関係は物語のラストに繋がっていきますが、それは解説の最後で述べます。
・山賊の変化2 「世界の認識」
美しい女が山に住むようになると、都の生活の素晴らしさを事あるごとに並べ立て、ぶつぶつと文句を言います。
そして、彼女は可能な限り都での生活を再現しようと、山賊に椅子や机を作らせたり、綺麗な水を遠くまで汲んでこさせたりするのです。
女の言うとおりにすると、不思議と女の美しさが際立つのですから、都とはすごいものだなと山賊は思います。
そして都には自分の知らないものが沢山あるのだと思うと、山賊は怖ろしい気持ちになってくるのでした。
山賊は、目に見える山、谷、川、雲までが自分のものだと満足していましたが、女によって世の中はもっと広いということを知らさるのです。
彼は自分が井の中の蛙だったことを理解し、外の世界を認識します。
これが山賊の二つ目の変化です。
・山賊の変化3 「時間の認識」
山賊は都で住むようになりますが、しばらくすると珍しかった都も飽きてしまいました。
人間を退屈なものだと思い、ひしめく民家を汚い景色だと言います。
彼はついに、単調に繰り返されていく毎日が厭でたまらなくなったのです。
空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗がくりかえしつづきます。その涯に何もなくいつまでたってもただ無限の明暗があるだけ、男は無限を事実に於て納得することができません。その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。
彼は女にそのことを言うと、女は
「キリがないのは山でも同じだろう」
と言います。
そう言われて彼は「違う」と思ったのですが、どこがどう違うのかは分かりません。
こうした違和感は、彼が山では考えることのなかった「時間」を、都に来てから意識し始めたからだと考えられます。
物語の終盤、二人が都から山へ帰るとき、彼はこんなことを思います。
男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山径を登ったのでした。その日も幸せで一ぱいでしたが、今日の幸せはさらに豊かなものでした。
それまでは「今」と「未来」のことしか考えなかった山賊ですが、ここでは明確に「過去」を意識しています。
こうしたことから、山賊が都で時間を認識したといえるでしょう。これも山賊の変化の一つです。
・ラストへとつながる変化
美、世界、時間を認識した彼の変化は、そのままラストへと繋がっていきます。
山と都という両方の「世界」を知り、自分に合った場所に帰ろうとする彼は、途中で桜の木の下を通ります。
「美」と「怖ろしさ」の象徴である「桜」ですが、女と幸福な気持ちになっている山賊は、怖ろしいという感情が湧いてきません。
すると桜はその本性を現し、美しい女の「時間」を操って醜い老婆に変えます。
ここでの出来事は、山賊が認識した「世界」「美」「時間」という概念が織り交ぜられて起こっているのです。
こうしたことから、『桜の森の満開の下』は山賊の認識の「変化」が主軸となって、動いている物語だと言えるのではないでしょうか。
-感想-
・山賊は途中の山で狂ったのではないか
『桜の森の満開の下』で気になったことは、美しい女性の話し方です。
彼女は美しいと形容されているにもかかわらず、
- ~かえ
- ~さ
という、いかにも意地悪な口調で話をします。
しかしその言葉遣いは、山賊が山に帰ると言ったときから
- ~よ
- ~かねえ
という柔らかな口調へと変化するのです。
それどころか、好きだった首遊びを捨ててまで、山賊とともに山に着いていくと言います。これまでの女からは考えられない変わり身です。
この女の変化は何だろうと考えたときに、ある可能性が浮かんできました。
それは、
- 山賊が都を出て二,三日のあいだ山をさまよったときに、桜の力で狂ってしまったのではないか
ということです。
以下が、山賊が山をさまよった場面です。
そして数日、山中をさまよいました。
ある朝、目がさめると、彼は桜の花の下にねていました。その桜の木は一本でした。桜の木は満開でした。彼は驚いて飛び起きましたが、それは逃げだすためではありません。
彼はこの場面で、山に帰ろうと決意します。そして都に一旦帰ると、なぜか女が優しくなっているのです。
つまり、山賊が桜の下で起きたときには、すでに彼は狂っていて、その後の出来事は全て幻覚なのではないか?というのが僕の考えです。
女が男の気持ちを満たすために、束の間のしおらしさを見せただけかもしれませんが、それにしてもすごい変わり身です。
そして最後の場面に繋がっていくのですが、この物語のラストの美しさは見事で、個人的に坂口安吾の最高傑作だと思います。
山賊に老荘思想的な雰囲気が漂っているのも好みでした。
以上、『桜の森の満開の下』のあらすじと考察と感想でした。
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