坂口安吾

坂口安吾『白痴』あらすじ&考察!人間と人間以下の境界線はどこにあるのか?

2019年10月24日

『白痴』とは?

『白痴』は襲いかかる戦火の中で人間の本性に迫った坂口安吾の代表作です。

東京空襲と白痴の女性を通して人間の奥深くに眠る感情が描かれています。

ここではそんな『白痴』のあらすじ・解説・感想をまとめました。

『白痴』のあらすじ

戦時中、27才の映画演出家である伊沢は東京に住んでいた。

近くには気の狂った男と白痴の妻がいる。

ある日、伊沢が会社から帰ると、なぜかその白痴の女性が家にいた。

伊沢は半分は女性のために、半分は虚ろな人生に刺激を求める意味で自室の押し入れに白痴の女性を匿った。

白痴の女性は伊沢が何を言ってもおかしな返事しかせず、ほとんど会話にならなかったが、身体に触れると落ち着くようだった。

しばらく経つと空襲が東京をおそうが、女性を匿っていることが近隣住民に知られるとまずいため、伊沢は誰よりも最後に逃げた。

民衆は火の海から逃れるためにまだ火の手のないところに大勢で逃げていたが、伊沢は誰も行かない小川の向こうの麦畑を目指して炎をかいくぐろうとした。

白痴の女性が本能で民衆と同じ方向に逃げようとするも、伊沢が女性にこの道が安全だと言い聞かせると、彼女は初めて伊沢の言葉にうなずいてみせた。

小川を超えて無事に麦畑に着くと、女性はすぐに眠った。

伊沢は眠る彼女を見ながらこれからのことを考え、夜が明けたら焼け跡の方は見ずに、遠い停車場を目指して歩こうと思った。

・『白痴』の概要

主人公 伊沢
物語の
仕掛け人
白痴の女性
主な舞台 東京
時代背景 1944~1945年
作者 坂口安吾

-解説(考察)-

・理性と感情の対比構造

この物語は白痴の女性を通して、本来は理性によって押し殺されている人間の奥深くに眠る感情がありありと描かれている作品です。

いわば、白痴の女性は感情の鏡であり、怖いときに怖がり、泣き、呻きます。

主人公に言わせれば、幼子よりも素直なその心は、ときに浅ましくも見えるほどです。

このような描写から、白痴の女性は

  • 人間本来の感情を表す人物

であることが分かります。

一方、主人公の伊沢は普段情熱を失っていますが、空襲になると活き活きとして、生命の不安を感じることだけが生きがいの人物です。

彼は理性的に振る舞いますが、その理性ゆえに人間の本能とは異なった感情を持つ倒錯した人物として描かれています。

このように見ると、主人公・伊沢の理性と白痴の女性の感情は対比的な構造になっていると言えるでしょう。

こうした対比的な構造は、最後の空襲で炎の中を逃げるときに、主人公と白痴の女性の意志が初めて通じ合う場面をより魅力的に見せることに役立っています。

とはいえ、作者は無垢な感情が理性に勝ると言っているのではなく、また反対に無垢な感情を馬鹿にしているのでもありません。

戦争という極限状態の中で蠢く人間の感情が、白痴の女性を通してしごく客観的に描かれています。

・空襲のその後はどうなるか?

物語は最後このような文章で終わっていきます。

夜が白んできたら、女を起して焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。電車や汽車は動くだろうか。停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。

坂口安吾『白痴』

東京空襲という凄惨な出来事のあと、伊沢は「焼跡の方には見向きもせず」に歩き出そうと考えます。

起こったことは起こったこととして、過去を振り返らずに歩みだす姿勢が彼の様子からはうかがえるでしょう。

しかし、伊沢はそのあとで、自分と白痴の女の二人の背中に「太陽の光がそそぐだろうか」と考えています。

歩み出そうとはするものの決して前向きではなく、その先に幸せがあるかどうかについては不透明な様子です。

東京にはこの小説で描かれる4月15日の空襲の後、5月24日、5月25日~26日と二回の空襲が襲います。そしてその年の8月に広島と長崎に原爆を落とされ、8月15日に日本は降伏するのです。

つまり、彼らにはまだもう少しの間の苦難が待ち受けています。

この「もう少し」というのは終戦を知っている現代の我々の感覚で、当時の状況に身を置いていた彼らには、いつ終わるともしれない不安が目の前に横たわっていたと考えられるでしょう。

井伏鱒二の『黒い雨』とは違い、第二次世界大戦そのものを正面から取り上げているわけではないですが、やはり戦争の厳しい現実もしっかりと作中に内包している作品です。

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-感想-

・みんなが同じ地表に立たされる

冒頭ではいきなり、「家畜」と変わらない生活をしている人間が描かれます。

物語の主軸となる白痴の女性も「うごめく虫」に喩えられたりと、人間以下の人間が強調されます。

とはいえ、「普通」の人間であるはずの会社の人々も俗物ばかりで、肝心の主人公も生活の情熱は消えています。

戦争という状況の下では、人間と人間以下の境界線はほとんど見えなくなり、理性も感情も霧消していき、ただあるのは肉体だけ。

これまでのプライドや人間が作りあげた形式的な地位が、爆弾という超現実的なものに吹き飛ばされ、全ての人間が同じ地表に立っています。

「白痴」であろうとなかろうと、同じ人間として生きている。そんな物語です。

戦争という非日常の世界の一端を、見事に描き切った作品だと思います。

以上、『白痴』のあらすじと考察と感想でした。

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