『蜜柑』とは?
『蜜柑』は芥川中期の作品です。列車の中での少女の行動を通して、主人公の移り変わる心境が描かれています。
芥川の作品には珍しく、作家本人の体験がそのまま物語になったもので、当時は「私の出遭ったこと」として『新潮』に発表されました。
-あらすじ-
主人公は横須賀駅から登りの二等列車に憂鬱な気持ちで乗っていました。列車にはほかに誰もいません。
そこへ十三、四のいかにも田舎者らしい娘が、風呂敷を抱えながら三等の赤い切符を持って、主人公の前へ座りました。
野暮ったい身なりに加えて、三等の切符で二等列車に乗る娘の愚鈍さを、主人公は腹立たしく思います。
列車が発車してしばらくすると、その娘がトンネルの中であるのにもかかわらず、しきりに窓を開けようとしています。
その行為が永久に叶わないことを願う主人公の気持ちとは裏腹に、ついに娘は窓を開けます。
するとトンネルのどす黒い空気が一気に流れ込み、主人公はむせかえります。
主人公の怒りは頂点に達しますが、そのとき列車はトンネルを抜けて窓の外が明るくなります。
主人公の気が少し緩んだところでその列車は田舎の踏切を通りかかっており、踏切の近くには子どもが三人手を振って立っているのが見えました。
その瞬間、目の前にいた娘は持っていた風呂敷の蜜柑を窓から放り投げ、蜜柑は五つ六つ宙へ舞い、子どもたちは小鳥のような歓声をあげました。
刹那、主人公は全てを理解しました。そして得体の知れない朗らかな気持ちがわき上がってくるのを意識しました。
・-概要-
主人公 | 私 |
物語の仕掛け人 | 十三、四の田舎娘 |
主な舞台 | 横須賀発の列車内 |
時代背景 | 大正8年頃 |
作者 | 芥川龍之介 |
芥川は当時、横須賀の海軍学校教官をしていました。横須賀線は彼のよく利用していた鉄道です。
-解説(考察)-
・『蜜柑』に出てくる「象徴」とは?
主人公は、
・トンネルの中の汽車と田舎者の小娘と平凡な新聞記事
が、「不可解で、下等な、退屈な人生の象徴」だといいます。
この物語は象徴が非常に多い作品です。一部ですが、作中に出てくる象徴には以下のようなものがあります。
象徴 | |
トンネルの中の汽車 | 不可解なもの |
田舎者の小娘 | 下等なもの |
平凡な新聞記事 | 退屈なもの |
黒煙 | 前を見えなくするもの |
娘の行為 | 主人公を救うもの |
「黒煙」は不可解な人生の行く末を見えなくするものの象徴だと考えることができるでしょう。
その黒煙が晴れるということは、人生の視界が開けることを意味します。
また、兄弟に蜜柑を放る娘の行為がありますが、その行為は主人公に安らぎを与えるので、娘の行為は「救い」の象徴であるといえます
以上をまとめると、『蜜柑』は「不可解で、下等な、退屈な人生」はすこしの間「前が見えなく」なりますが、「救い」によって明るく転じていく物語だといえます。
これを象徴的に言い換えると、「トンネルの中の汽車と田舎者の小娘と平凡な新聞記事」は「黒煙」に包まれますが、「娘の行為」によって明るい方向へと進んでいく物語となります。
「万物はメタファーである」というゲーテの言葉があるように、全ての物語は象徴だといえるでしょう。
その中でも、『蜜柑』は特に「象徴」を気にして描かれている作品であることが分かります。
・暗い冒頭から明るい結末へと移り変わる描写の見事さ
『蜜柑』を面白くしているのは物語の色彩の変化です。
「ある曇った冬の日暮れ」から始まる冒頭は、作品を暗く陰鬱なものにしています。
また、それに呼応して主人公の気持ちも暗く沈んでおり、どこからか聞こえてくる悲しい子犬の鳴き声に自分を重ねさえします。
物語の仕掛け人である娘の描写も徹底的にネガティブに描き、作品をさらに重たくさせています。
しかし、列車が動き出してトンネルを越え、車内に充満した黒い煙が消え去ると物語は一変します。
娘が窓から放り投げて宙に舞った蜜柑の色はこれまでモノクロだった物語に鮮やかな色彩を与えます。
そして娘のその行為は暗く塞ぎ込んだ主人公の心に光を投げかけるのです。
この蜜柑の色彩と娘の行為の明るさを際立たせるために、前半の描写が必要なまでに暗く描かれていたのが分かります。
・青と赤の対比
当時の列車は車両によって階級が分かれていました。
主人公が乗っているのは二等列車で、その切符の色は青色でした。青色は寒色であり、物語の暗い雰囲気を強調しています。
対して娘が持っている三等の切符は赤色です。赤は暖色であり、娘が物語を明るくする人物であることが暗に示されています。
蜜柑や赤い切符など、娘の持っている暖かい色のアイテムが、物語の最後に来て一気に効果的にはたらいています。
こうした色彩の対比が『蜜柑』という作品の雰囲気を盛り上げ、小説としての完成度を高めています。
-感想-
・蜜柑を投げた場面
『蜜柑』の素晴らしいのは、なんと言っても娘が蜜柑を放り投げる場面でしょう。
この蜜柑の鮮やかさ(それは娘の行為の鮮やかさでもあります)を描くために、この小説は全てを捧げられています。
年齢的に娘はおそらく奉公に行くのであり、彼女にとっては大いなる旅立ちの日でもあったでしょう。
しかし、ぎりぎりになって列車に乗ったところをみると、娘が奉公先に決して行きたいわけではないことが分かります。
そこへ見送りの兄弟が踏切まで押しかけ、降ってきた蜜柑に小鳥のような声を上げます。
彼女の行為の暖かさと状況の寂しさが、蜜柑の「甘酸っぱい」味覚とも重なる秀逸な場面だといえます。
開け放たれた列車の窓からは自然のにおいが入ってきており、嗅覚、視覚、聴覚・味覚といったあらゆる感覚器官で味わうことの出来る作品です。
芥川作品の中でも特に短い物語ですが、完成度が非常に高いのでおすすめです。
以上、『蜜柑』のあらすじと考察と感想でした。
この記事で紹介した本