芥川龍之介『杜子春(とししゅん)』のあらすじ・解説&感想!黄金の場所が示す意味とは?

『杜子春』とは?

『杜子春』は芥川龍之介によって書かれた物語です。若く貧しい主人公の杜子春(とししゅん)が仙人・鉄冠子と出会い、人間として成長していく様子が描かれています。

『杜子春伝』という唐代の神仙小説をもとに書かれたもので、物語の大枠は同じです。

しかし随所に芥川の独自性が見られ、結果的に読者に訴える内容は『杜子春伝』とは全く違うものになっています。

児童向けの童話として発表されましたが、当時から大人も楽しめる文学作品として高い評価を受けていました。

もちろんその面白さは今でも色褪せておらず、芥川作品のなかでも名作としてよく名が挙がります。

-あらすじ-

  • 一章 若く貧しい杜子春が門の下で立っていると、どこからか老人が現れ、黄金のありかを教えてくれます。
  • 二章 杜子春が大金を手にした途端、それまでは杜子春に冷たかった友達も急に仲良くし始めます。しかしそのお金を使い果たしてしまうと友達も杜子春の元を去って行きます。するとまた老人がやってきて、大金のありかを教えてくれます。しかし杜子春はまたそのお金を使い果たしてしまいます。友が来て、また去り、全てが同じ事です。
  • 三章 三度目に老人が現れたとき、杜子春は老人が仙人であることを見抜き、彼の弟子になることを望みます。お金があるときにだけ寄ってくる薄情な人間に愛想が尽きたからです。
  • 四章 2人は峨眉山に向かい、仙人は「何があっても声を出してはならない」と言い残し、その場を去ります。杜子春に様々な魔性が襲いかかりますが、杜子春は声を出しません。そして最後には「返事をしなければ命を取る」と言った神将に返事をしなかったので殺されてしまいます。
  • 五章 杜子春の魂は地獄に下ります。そこでも杜子春は言い尽くせない地獄の責め苦にあいますが、そこでも仙人の言いつけを守り決して声を出しません。それを見た閻魔大王が杜子春の両親を連れてきてやたらめったらに打ち付けはじめました。初めて耐えかねた杜子春は「お母さん。」と一声を叫びました。
  • 六章 その声に気がついてみると杜子春は元の世界に戻っていて、目の前には仙人がいました。「どうだ、とても仙人になれはすまい」という仙人に、「なれません。なれませんが、なれなかったことも返って嬉しい気がするのです」と杜子春は返します。それから杜子春は「人間らしい、正直な暮らし」をすると仙人に告げると仙人は「泰山の麓にあるを一軒あげよう」と言い、物語は終わります。

・『杜子春』-概要

主人公 杜子春(とししゅん)
物語の仕掛け人 仙人(鉄冠子)
主な舞台 唐(中国)の都、洛陽・峨眉山
時代背景 後唐(923~936年)
作者 芥川龍之介

-解説(考察)-

・黄金のありかは影の中?

この物語の中で杜子春は二度大金持ちになります。

一度目は老人に「今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、そのに当たる所を夜中に掘ってみるがいい。」と言われ、その通りにすると黄金が出てきました。

二度目も同じく老人に「今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、そのに当たる所を夜中に掘ってみるがいい。」と言われ、その通りにすると黄金が出てきました。

では三度目はどうでしょう?そう、三度目はありません。仙人が「今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、そのに当たる所を夜中に掘ってみるがいい。きっと車に一ぱいの――」と言ったところで杜子春が制して、「もうお金は入らないのです」と言います。

ここで注目したいのは身体の部分が一度目は頭、二度目は胸、三度目は腹とだんだん下へ下へ降りていると言うこと。

もし四度目、五度目と続けばどうなっていたのでしょうか。腹の次は足。足の次は、、、?と考えるとどこか不吉な感じがします。なんにせよ黄金を与えられるチャンスには限りがありそうです。

また「夜中に掘る」というのも後ろめたいネガティブな印象を与えます。

杜子春は三度目で踏みとどまりました。「人間に愛想が尽きた」からです。そしてその様子を仙人は「じっと」見つめます。

ちなみに老人は片目眇(隻眼)ですので、「じっと」見つめる様子には凄みがあります。

こうした描写から分かるのは老人(仙人)がただ優しいだけの翁ではないということ。甘い言葉を投げかけ、それに反応する杜子春の様子をしっかりと観察している抜かりのなさが見て取れます。

・なぜ杜子春が発した言葉は「お母さん。」なのか

何が起ころうとも決して声を出すな」という仙人の言葉は、この作品に緊張感を持たせる上で効果的にはたらいています。

この設定は作品のもととなった『杜子春伝』でも同じですが、その禁忌を破る第一声は二つの作品でそれぞれ異なっています。

『杜子春伝』の第一声は主人公が子どもを殺されたときに発声する「ああ」という言葉です。

一方『杜子春』では、親が拷問を受けているときに発声する「お母さん」となっています。

この二つが決定的に違っているのは、『杜子春伝』は親が子を思う気持ちから発声しているのに対して、『杜子春』では子が親を思う気持ちから発声しているという点です。

さらに、その第一声で現実に戻った主人公と仙人のやりとりも異なります。

杜子春伝』では仙人がなぜ言葉を発したのだと怒り主人公を突き放し、言いつけを守れなかったことに主人公は深く恥じ入ります。

一方『杜子春』では、主人公が声を出して良かったと自己を肯定し、仙人も「声を出さなかったらお前を殺していた」と主人公の判断を認めます

それぞれの違いを下の表にまとめてみました。

中国古典『杜子春伝』 芥川龍之介『杜子春』
第一声 自分の子に対して「ああ」 親に対して「お母さん」
仙人の様子 声を出したことを責める 主人公の判断を肯定する
主人公の様子 声を出したことを深く恥じ入る 声を出しても返って嬉しい気がする

このように見てみると『杜子春伝』は信義がテーマであり、『杜子春』はがテーマであることが分かります。

芥川の『杜子春』は雑誌『赤い鳥』に掲載された童話ですので、より児童向けのリアリティを追求し、現代風にアレンジした結果だと考えられますね。

ちなみに、芥川龍之介が『赤い鳥』に掲載した童話には『蜘蛛の糸』などもあります。

『杜子春』を読んだ人なら気に入ると思うので、ぜひ読んでみて下さい。

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-感想-

・鉄冠子にもらった家に杜子春は住んだのか?

結末部。「人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と晴れ晴れしく言った杜子春に対して、鉄冠子が「泰山の南の麓」にある「一件の家」を畑ごと杜子春にあげようと伝えてこの物語は終わります。太っ腹な仙人ですね。

普通の話ならばここにはまだ続きがあって、「杜子春はその家で幸せに暮らしました」のようになるはずですが、この作品にはそれがありません。

つまり、杜子春は鉄冠子(仙人)の申し出を受け入れたか受け入れていないか分からないまま物語が終わるのです。

申し出を受け入れた場合、杜子春は泰山の南の麓で暮らすことになるわけですが、都である洛陽から遠く離れた泰山の暮らしはどこか世間から隔絶されている印象があり、世間と前向きに関わっていこうとする杜子春と反するようにも思います。

一方で申し出を断った場合、杜子春はそのまま洛陽に都に留まりますが、「人間らしい正直な暮らし」をおくることが出来るのかはという点に関しては疑問が残ります。

僕としては、杜子春は仙人のすすめた家には住んでいないのではないかと考えています。

なぜなら鉄冠子(仙人)が優しいだけの翁でないことは明らかですし、これまでの鉄冠子の甘い言葉には全てがあったように思われるからです。

さらに、結末部の鉄冠子の演技的な態度もあやしいです(気になる方は読み直してみてください)。

とはいえ、お金は要らない(社会での地位を目指さない)、けれども仙人にもならない(社会から隠れるわけではない)という杜子春は未だ自分の行く末が不明瞭のままです。

そのために、仙人からの言葉に窮したのかも知れません。

どちらにせよ杜子春が仙人との出会いで得たものを信じたいですが、『杜子春』のその後を考えることがこの物語を一層面白くさせるような気がします。

・幻想的で異国情緒の溢れる物語

『杜子春』を読んでまず感じたのが情景描写の素晴らしさです。

  • 主人公が大金で贅の限りを尽くす場面に見られる煌びやかで異国情緒豊かな洛陽
  • 竹にまたがって魔法使いのように空を飛び、大きな星が頭上に光る高い一枚岩の幻想的な風景
  • 獣や雷や魔性に襲われ様々な地獄の責め苦を受ける怪奇的な描写

それぞれの描写が丁寧で美しく、この物語を上質な作品にしています。

そして、それらを包括する丸みのある優しい文体も、この小説の魅力のひとつでしょう。

緊張感が必要なため『蜘蛛の糸』ほど穏やかではなく、とはいえ固くなりすぎず、程よい語りの文体で仕上げられているように思います。

以上、『杜子春』のあらすじと考察と感想でした。

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