川上弘美の『某』。読み方は「ぼう」
どうも、読書ブロガーの小助です。
この記事では川上弘美さんの『某』を紹介していきます。
物語は、性的に未分化で染色体が不安定、つまり状況次第で男女どちらにもなる「私」が主人公の話。
記憶はそのままに、年齢・性別・容姿が変化していく彼/彼女は、どこからどこまでを「自分」だと言えるのか。
川上弘美さんらしい日常感と少しのSF的な世界観を背景に、現代~未来的なアイデンティティを捉えようとした作品で、文学好きにはたまらない内容になっています。
・作品の概要
主人公 | 某という名前のない存在 |
物語の 仕掛け人 |
某の仲間たち |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 現代~近未来 |
作者 | 川上弘美 |
-内容・見どころの紹介-
・流動する「私」という生命体から読み取る物語のテーマ
物語の中で、主人公はじつに6回もの変化をします。ちなみにこの変化のタイミングは、主人公の意志によって決定することが出来ます。
つまり主人公は7人の人物として、ある一定の期間を生きるのです。
たとえば、一人目の「丹羽はるか」は16才の女子高生で、内向的な性格の持ち主。
二人目の「野田春眠」は女性と関係をつくることに意欲的な17才の男子高校生。
三人目の「山中文夫」は自己愛の強い20代事務職員、などなど。
彼/彼女らは「自分」として同じ記憶を共有しつつも、内・外的要因によって違うかたちのアイデンティティが形成されます。
こうした年齢・性別・個性・身体つきまでもが変化する「某」という生命体の設定からは、
- 肉体と精神の結びつきを前提としたアイデンティティ
が読み取れます。
このような「肉体と精神」という構図は、『某』を読んでいく上で重要なテーマだと言えるでしょう。
物語の最後までこのテーマは響いてきます。
・主人公と同じ生命体「某」
主人公のような生命体は、小説世界の中で「稀ではあるが存在する者」という設定になっています。
ですので、医者が主人公の変化を目の前にしても、珍しいものを見たという程度で、特に驚かれたりはしません。
したがって主人公と同じ境遇の生命体はほかにも存在しており、数人の仲間が実際に登場します。
彼らは一定の名前を持たないので、便宜的にアルファやガンマといったギリシャ文字で呼ばれたり、その存在の虚ろさから「某(ぼう)」と示されたりします。
彼らは集まることで、自分たちの疑問を共有します。
たとえば、
- 年齢を自在に操れる自分たちが死ぬことはあるのか?
- 染色体の不安定な自分たちが子どもを生むことはできるのか?
そうした疑問から、彼らの存在は「生死」というテーマに関わってくる役割を持っています。
感情的に人間離れした変なやつばかりなのですが、こうした仲間達も物語を面白くしてくるエッセンスです。
・小説だからこその面白さ!『某』の文体
『某』の見どころのひとつは、文体の変化にあるでしょう。
この物語は主人公が7人の人物に移り変わるのですが、それぞれのキャラクターは作者・川上弘美さんの巧みな文体の書き分けによって描かれています。
わたし、ぼく、自分、あたし、俺などの一人称の違いから、ちょっとした仕草、好み、考え方などを変化させつつ、それでいて全く別の人物とは感じさせない人物像を見事に創りあげています。
かんたんに映像化できる物語ではないところに、この作品の小説としての魅力があふれ出ているのです。
といいつつ、もし映像作品になったら喜んで観に行きますが、小説の面白さと全く違うことは確かでしょう。
小説だからこその面白さを感じやすい作品になっています。
『某』の感想
手の届く想像力、といえば語弊があるかもしれないけれど、この物語は突飛な発想を売りにした作品ではないことは確かです。
僕たちが住む現実世界の範囲に収まっている空気感がそこにはあって、それがなんとも言えず心地よい。
けれども、そこはかとなく漂うディストピア感がスパイスとなっていて、読む手を休めさせない刺激を与えてくれます。
このディストピア感というのは、もしかすると伊藤計劃『ハーモニー』のハーモニー・プログラムに似ている感じかもしれません。
午後に紅茶とジンジャークッキーをたしなむ貴婦人のようにまったりと、だいたい3時間くらいかけて読みました。
表紙の装丁も良い。なんだこの愛しくも切ない生き物たち。「某」をうまく捉えすぎだろう。
この記事で紹介した本