『影裏』のあらすじ・紹介
結論から言うと、この小説は性の問題で子どもが出来ないことを悩む主人公の物語だと思う。
しかし、そうした個人的な見解は後の「感想」に回すとして、まずは客観的な作品紹介・解説から見ていこう。
『影裏』は沼田真佑さんの第157回芥川賞受賞作。
「3.11」や「性別」といったテーマをぼんやりと背景に据えながらも、岩手県で過ごすサラリーマンの主人公が描かれる物語だ。
主人公の今野は、酒と釣りが趣味の男性サラリーマン。転勤先の会社で日浅という男と出会い、趣味が合った二人は意気投合する。
しかし日浅は会社を辞めて転職し、ちょっとした諍いがきっかけで彼らは疎遠になってしまう。
ここではそんな『影裏』の解説と感想をまとめた。
-解説-
・土の匂いがする描写力
『影裏』の魅力はなんといってもリアルな自然の描写だろう。
渓流と水楢(ミズナラ)の倒木、川魚の粘液、エサとなる虫やイクラ。
こうした自然がやけに生々しく現前してくるのだ。
それはおそらく、登場人物達の精神的な描写が過度に抑えられ、物質的な描写に重心が置かれているからだろう。
3.11という出来事が背景に潜んでいることが、このような形式を必然的にさせたのかもしれない。
物語終盤の自然描写はさらに圧巻で、その箇所は稀に見る名文だと言えると思う。
・ぼんやりとした関係性
『影裏』はLGBT(レズ、ゲイ、バイ、トランスジェンダー)的な描写があるとかないとかで、ちょっとした議論のある作品だ。
LGBTとは言わないが、性の問題がテーマの一つであることは間違いない。
そうでなければ、主人公の元彼女(和哉)が性同一性障害の男性だったなどという設定を持ち出す必要は全く無いからだ。
和哉がそうしたシンボルとして作中に配置されている以上、この物語には性のテーマが必ず漂う。作者はもちろん、そんなことは百も承知だ。
では主人公はどのような性を持っているのか?
たとえば彼がゲイの性を持っているのであれば、日浅との関係は友情とは違った形になるかもしれない。
作中ではそこが曖昧なまま描かれていて、彼らはぼんやりとした関係性を保っている。
個人的な見解は次の感想で述べるが、こうした曖昧な関係性も『影裏』という作品の魅力のひとつだろう。
『影裏』の感想
『影裏』は「性」が主題である作品だと、個人的には思う。
冒頭でも述べたが、この小説は性の問題で子どもが出来ないことを悩む主人公の物語だ。
主人公の元彼女は、性同一性障害の和哉という男性で、今は手術を経て女性になっている。
けれども、身体的に男性だった彼女が子どもを産むことは、現代では残念ながら不可能だ。
おそらく主人公は、そうした問題にかつて直面していた。
それは『影裏』で描かれる「魚釣り」に関係してくることから読み取れる。
釣りで使う「イクラ」や、釣った「子持ちの鮎」など、この物語には「卵」がよく出てくる。
そんなイクラは針で刺されてエサにされ、子持ちの鮎は「卵が少ない」と言われながら食べられる。
こうした描写からは、「子」という存在が「生まれないもの」として描かれていることが分かるだろう。
このようなことから、『影裏』は性の問題で子どもが出来ないことを悩む主人公の物語ではないかと考えるのだ。
それから、「結婚」の問題も少し顔を覗かせてくる。
日浅が持ってきた営業の結婚式場のパンフレットに幸せそうな男女の写真が写っていて、それを主人公が眺める場面がある。
さらに、彼の妹は結婚する予定で、顔合わせのときはどうぞよろしくとの連絡が来る。
こうした場面に散りばめられている「結婚」だが、もし主人公が性的にマイノリティであるとすれば、そうした場面の主人公は少しナイーブな心境だったかもしれない。
しかし主人公は何も言わず、心情も特に描かれない。描かれるのは、倒木や魚の卵やパンフレットなど物質的なものばかりだ。
だがそうした物質的なものが、もしかしたら主人公の気持ちを雄弁に語っているのかもしれない。
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