『モチモチの木』とは?
『モチモチの木』は、斎藤隆介(1917〜1985)による創作童話です。
タイトルを見ても分かる通り、斎藤隆介はオノマトペを用いた童話作りが得意な児童文学作家でした。
ここでは、そんな『モチモチの木』のあらすじ・感想・作者が伝えたいことまでをまとめました。
『モチモチの木』のあらすじ
ある山に、臆病な子ども豆太が、じい様とふたりで住んでいました。
豆太は5歳にもなるのに、夜のトイレに一人で行けないのです。
なぜなら、家の前に大きな「モチモチの木」があって、夜になると枝がバサバサと揺れて、おっかないからでした。
じい様に、「11月3日の晩にはモチモチの木に火が灯る。ひとりの子どもにしか見られないものだ。ワシも見たことがある。お前のおとうも見た」と言われます。
ですが豆太は、自分は臆病だから見られそうにないなと思うのでした。
その夜、じい様が急にお腹を痛めて、ひどく苦しそうに唸り始めました。
じい様が死んでしまうと思った豆太は、勇気を振り絞って山を下り、お医者様を呼びに行きます。
お医者様と家に向かう途中、豆太はモチモチの木に火が灯るのを見ました。
思わずお医者様に言うと、あれは月の光と星の輝きが雪に反射しているんだよと教えられます。
翌日、腹痛が治った爺さまに、「人間はやさしさがあれば、やらなきゃ行けないことはきっとできる」と言われます。
それでも豆太は、その晩からじい様をトイレに起こしましたとさ。
『モチモチの木』で作者が伝えたいこと
「優しい心」があれば「よわむし」でも良い
『モチモチの木』は、「おくびょう」で「よわむし」な5歳の子ども、豆太が主人公です。
彼は夜が怖いので、せっちん(トイレのこと)にひとりで行けません。
ですが、じい様のピンチになると、無我夢中で夜の山に出て、お医者さまを呼ぶという勇気を見せます。
臆病→じい様のピンチ→勇気を出す
『モチモチの木』ではこのような構成で、豆太の中にある「勇気」にフォーカスを当てています。
じい様はこの勇気を、次のように評価します。
おまえはひとりでよみちをいしゃさまよびにいけるほどゆうきあるこどもだったんだからな。じぶんでじぶんをよわむしだなんておもうな。にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ。
斎藤隆介『モチモチの木』鈴木出版
臆病で夜の外に出られなかった豆太ですが、じい様のためなら外へ出られた。
こうしたところから、『モチモチの木』で作者が伝えたかったことは、
- 優しい心を持つことの大切さ
であると考えられます。
ほかに作者が伝えたかったこととして、勇気の大切さも考えられますが、本作での勇気はむしろ、「優しさ」を表現するための工夫として機能しています。
次からは『モチモチの木』の「勇気」と「やさしさ」について深掘りしていきます。
『モチモチの木』が伝える「やさしさ」
セオリー通りじゃない『モチモチの木』
『モチモチの木』が面白いのは、ラストでも豆太が夜のトイレにじい様を起こしているところです。
いわゆる「物語」では、主人公が何かしらの試練を乗り越え、以前とは違う人間に成長するという成長譚が多いです。
『モチモチの木』で言えば、臆病だった豆太がじい様のピンチで「勇気」を見せ、それをきっかけに夜の怖さを克服することができる、というのがセオリーです。
しかし、一度は勇気を見せた豆太が、ラストでも夜の怖さを克服できていません。
なぜでしょう。
自分のための勇気と、他人のための勇気
ここで、『モチモチの木』でみられる「勇気」を整理してみます。
- 夜のトイレに一人で行く勇気→自分のため
- 苦しむじい様を見て夜中に医者を呼びに行く勇気=他人のため
『モチモチの木』で豆太が見せる勇気は、他人のためにだけ発揮されています。
逆に言うと、「他人のための勇気」を際立たせるために、自分のための勇気を出さない主人公が設定されているわけです。
なので、ラストでも豆太はトイレへ行けないということが起こります。
あれ?勇気を出せるようになったんじゃないの?
そう思いがちなラストですが、この場面があるおかげで、豆太の勇気が二種類あることを教えてくれています。
優しさ=他人のために動くこと
こうした「勇気」を押さえておくと、『モチモチの木』における「やさしさ」についてもよく分かってきます。
最終章の副題は、「よわむしでも、やさしけりゃ」
本作は5章で構成されており、それぞれに副題がついています。
- おくびょう豆太
- ヤイ木ィ!
- 霜月三日の晩
- 豆太は見た
- よわむしでも、やさしけりゃ
作中で表現されていることをふまえると、「やさしさ(他人のための勇気)」があれば、「弱虫(自分のための勇気がない)」でも良いという作者の気持ちが読み取れます。
このようなことから、作者の伝えたいことは「やさしさ」の大切さであり、「勇気」は優しさを表現するための工夫ではないかと考えます。
おとぅとじい様の「勇気」
『モチモチの木』で「勇気」を出しているのは豆太だけはありません。
豆太の父親やじい様の勇気も、第一章で描かれています。
けれど豆太のおとぅだって、クマとくみうちして、あたまをぶっさかれて死んだほどのきも助だったし、じさまだって六十四のいま、まだ青ジシをおっかけて、きもをひやすような岩から岩へのとびうつりだって、みごとにやってのける。
斎藤隆介『モチモチの木』鈴木出版
はじめに読むと、豆太の臆病さを表現するための描写だと感じます。
しかし、『モチモチの木』における「勇気」の意味を理解してもう一度読むと、豆太の父親とじい様の勇気は、他人のための勇気であることが分かります。
ただ勇敢だから岩を飛び移ったり、熊と死闘を繰り広げるわけではありません。
根底にあるのは孫・息子である豆太を育てるためであり、そのためなら死んでまでも熊と闘い、あるいは六十四歳になっても岩を飛び移るのです。
これは自分のための勇気ではなく、他人のための勇気だと言えるでしょう。
作中の後半に他人のための勇気を見せた豆太は、一章で勇気ある人間だと表現されていた父親や祖父に少しだけ並ぶことができた。
こうした構成に、『モチモチの木』における豆太の成長が見て取れます。
「モチモチの木」という存在
モチモチの木の正体は?
モチモチの木の正体はトチノキ(栃の木)です。
その実を加工すると栃餅(とちもち)が作られるので、豆太がそう名付けました。
作中ではとても美味しそうに描かれており、日本全国の山村で食べられていたそうです。
モチモチの木ってのはな、豆太がつけたなまえだ。(中略)こなにしたやつをもちにこねあげて、ふかしてたべると、ほっぺたがおっこちるほどうまいんだ。
斎藤隆介『モチモチの木』鈴木出版
↓実際のトチノキと栃餅を画像で紹介します。
たしかに大きな木で、夜に見上げると怖いかもしれません。
ちなみにトチの実を食べるのは世界でも日本だけだそうです。
モチモチの木は怖い?
恵みをもたらしてくれるモチモチの木ですが、豆太は夜になるとモチモチの木を大変怖がります。
風に揺らされているその様子が、まるで生き物のようで恐ろしいからです。
おもてには大きなモチモチの木がつったっていて、空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって、りょう手を「ワァッ!」とあげるからって、よなかには、じさまについてってもらわないと、ひとりじゃしょうべんもできないのだ。
斎藤隆介『モチモチの木』鈴木出版
また読者としては、絵本の表紙のイメージカラーが黒であり、さらに切り絵なので、お話自体が怖いと感じる人も多いです。
たしかに部分的には怖さもあるお話ですが、全体的に見ると怖さを押し出した話ではありません。
モチモチの木=自然のメタファー
モチモチの木は、作中でさまざまに描かれます。
- 一章→豆太にとっておそろしい木
- 二章→ピカピカの実で餅にすると美味しい恵みの木
- 三章→ある夜に火が灯ると言われる神秘的な木
- 四章→実際に火が灯る幻想的な木
- 五章→豆太にとっておそろしい木
モチモチの木の表情が色々と変化しているように見えますが、実は、変化しているのは豆太(あるいは語り手)の見方です。
モチモチの木はただそこにあるだけで、何も変わってはいません。
見方によっては美味しい餅の原料となってくれる恵の木であり、はたまた恐ろしく存在する悪魔の木でもある。
自然というものは、ときには恵みになりますが、ときには災害ももたらします。
それは受け取る人間側の認識であって、自然からするとどちらも同じこと。
こうした類似から、本作におけるモチモチの木という存在は、「自然」のメタファーとしても機能していることが分かります。
豆太の小さな成長が描かれる一方で、モチモチの木が暗示する自然という大きな存在も対比的に描かれており、さらに物語の奥行きが生まれています。
童話好きとしては、こうした手法はどこか宮沢賢治に近いものも感じます。
モチモチの木の感想
タイトルのインパクトが強かった
『モチモチの木』はタイトルのインパクトが強い作品です。
読む前から、どんな木なんだろう?ファンタジー色の強いおとぎ話かな?と想像を膨らませてしまいます。
小さい頃に絵本を読んだときは、全然モチモチした木が出てこなかったので、なんとなく怖いお話として覚えていました。
大人になってから読むと、モチモチの木はトチノキで、餅が作られるからモチモチの木なのだということが分かりましたが、当時は分かっていなかったように思います。
ここでは分かりやすいように、トチノキや栃餅の画像を載せました。
モチモチの木の正体と一緒に、物語を楽しんでもらえるとありがたいです。
以上、『モチモチの木』あらすじ&作者の伝えたかったことでした。