「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨止みを待っていた」
芥川龍之介(1997)『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p9, 文藝春秋.
『羅生門』とは?
『羅生門』は芥川龍之介の文壇的なデビュー作として知られています。
高校の教科書にも載っているので、一度は読んだことがあるという人が多いのではないでしょうか。
この『羅生門』ですが、元は『今昔物語集』に収められた盗人の話を、芥川龍之介が現代風にアレンジしたものになります。
芥川龍之介は他にも多くの古典作品をアレンジ・リメイクしており、その作品群はジャンルによって王朝物や切支丹物、中国物と呼ばれています。
『羅生門』はその中でも王朝物の処女作とされている作品です。
ここではそんな『羅生門』について解説(考察)していきます。それではみていきましょう。
-あらすじ-
ある日の暮れ方、一人の下人が奉公先から暇を出された(解雇された)ので、羅生門の下でぼんやりと雨止みを待っている。
数年のうちに地震や火事や飢饉などが続いて起こったせいで京都は酷く荒れ果てており、空には死人の肉を狙う鴉が舞い、不気味なほどにひとけも少ない。
下人はさっきから「このままでは盗人になるよりほかあるまい」と考えているのだが、一方でその考えを強く肯定できず、どうしたものかと思案している。
ともかく今日の寝床を確保しようと羅生門の楼の上に出るが、人のいないと思っていた楼の上には火がついていて、どうやら人がいるようである。
上にいたのは痩せ細った老婆で、死体の髪の毛を一本一本抜いている。それをみた下人は激しく憎悪し、老婆の前へおどり出る。
老婆は驚くが、「これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの」と言う。
それを聞いた下人は「きっと、そうか」と念を押し、「では、己が引剥をしようと恨むまいな」と言うが早いか老婆の着物を剥ぎ取り、暗い夜の中にまぎれていった。
・『羅生門』-概要-
主人公 | 下人 |
物語の仕掛け人 | 老婆 |
舞台 | 平安京羅生門 |
時代背景 | 平安時代末期・晩秋 |
作者 | 芥川龍之介 |
-解説(考察)-
・下人はなぜ悪に走ったのか?
下人の自問自答・老婆とのやりとり
あらすじでもみたとおり、下人は職を失い、他に探せる職もありません。
そんな中、俺は盗人になるのか?それともどうにかして生きていくのか?いやどうにもならないだろう、やはり盗人になるほかあるまい、いや、でも、、、という自問自答が下人の中で際限なく繰り返されるのです。
盗人の他に道がないのであれば、論理的には下人は盗人になるしかありません。ですが、下人の道徳観がそれを押しとどめているという形です。
つまり、下人は善悪の狭間で揺れているのです。
では、下人はどのようにしてその自問自答にけりをつけたのでしょうか。
その決め手となるのが物語終盤の老婆とのやりとりです。そのやりとりは大体以下のようなものです。
少しポップに脚色しましたが、大体こんなところです。老婆の言い分にもうなずけるものがありますね。まとめてみると、老婆の論理はこういうものです。
- 女(死体)は生きるために蛇を売っていた。
- だからわし(老婆)も生きるために女の髪を毟ってかつらを売る。
・生きるためには仕方がない
下人の論理
下人は羅生門の下で、盗人になるかならまいか思案していました。
しかし、自分で決断することが出来なかった下人は、老婆とのやりとりの中で悪事を肯定する論理(生きるためには仕方がない)を見出し、悪に身を委ねることにしたのです。
下人の論理をまとめるとこうなります。
- 女(死体)は生きるために蛇を売る。
- 老婆は生きるために女の髪を毟ってかつらを売る。
- じゃあ俺(下人)も生きるために老婆の服を剥いで売る。
見事に悪の因果が続いていますね。こうした人間のエゴを芥川龍之介は見事に描いています。
・下人の行方は?
『羅生門』はハッピーエンドか
国語の授業などではよく、「作品のその後を想像して書きなさい」といった設問が見られたりします。この『羅生門』も例に漏れず、「下人の行方を想像して書きなさい」という設問は多いようです。
「下人はその後盗人の世界で名声をほしいままにし、活動範囲は海をこえて広がりました。モンゴル帝国、東ローマ帝国へと移動しながら盗みの限りを尽くし、フランスでその盗みぶりは最盛を極めます。「怪盗ルパン」の元となったのはこの下人だと言われたり言われなかったり、、、」
などと想像力を駆使して下人の行方を考えるのも楽しいですが、作品の論理(下人の論理)に立つと、実は下人の行方は容易に想像がつきます。
「俺(下人)も生きるために老婆の服を剥いで売ろう」と考えた下人は、その時点で悪の因果に組み込まれています。
ですので、次には「別の誰かが生きるために下人の所有物を奪って売る」という場面が当然待ち構えているはずです。
つまり、羅生門の上にいた老婆の立場に下人が置き換わるということですね。
こうした『羅生門』の作品構成にしたがえば、残念ながら下人にハッピーエンドは待ち受けていなさそうにみえます。
『羅生門』-感想
・結局『羅生門』はどこがすごいのか?
比喩表現が巧みだった!
『羅生門』ってなんでこんなに有名なんでしょうか。もちろん、教科書にも載っていて結末(オチ)も面白いのですが、どうやらそれだけでもなさそうです。
次の文章を見てみてください。少し不思議な表現に気がつきませんか?
「羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである」
芥川龍之介(1997)『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p9,文藝春秋.
注目してほしいのは、この「市女笠や揉烏帽子」という部分です。
この市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)ってなんのことだか分かりますか?
これは、平安時代の女性や男性の被り物のことです。
こんな感じのやつですね。市女笠が女性の、揉烏帽子が男性のかぶり物になります。
話を元に戻しますが、ここでの表現(「市女笠や揉烏帽子」)というのは実は比喩表現となります。
それって比喩なの?と思うかもしれませんが、例えるなら「おいそこのメガネ!」と言うのと同じですね。物を指しているにも関わらず、それを着けている人について言及しています。
比喩といえば「見ろ、人がゴミのようだ!(某大佐)」のような直喩や「お前はゴミだ!(ただの暴言)」のような隠喩が一般的です。
「おいそこのメガネ!」のような比喩は換喩といい、一般的には使われることの少ない比喩ですので高等テクニックだと言って良いでしょう(「花より団子」なんかもそうですね)。
そうした換喩を芥川龍之介はさらっと使い、しかも読者にほとんど違和感を残しません。
そうした小技が作品の随所に見られ、結果的に作品全体の質を高めることに繋がっています。
・下人はどこにでもいる普通の人なんだと思う
職を失って、明日から食べるものもない。もしこういう状況になったらあなたはどうするでしょうか?
いやいや、そんなことはあり得ないよ。日本は割と豊かだし、法や福祉の整備も割と整っているし。生きるために仕方なく悪行をするシチュエーションなんてなんてほとんどないよ。
たしかに今の日本で下人と同じ状況になることは考えにくいですが、時代が変わればこうならないとも限りません。
それに、そうなったら怖いなあ、あまり考えたくないなあ、という気持ちが、『羅生門』という作品を面白く読ませているのではないかと思います。
誰だって下人になりうる
下人と同じシチュエーションにはならないかもしれませんが、生きるためには仕方がないという論理は日常的にみることができます。
たとえば畜産なんかもそうですね。人間のエゴで毎年何億羽といった数のひよこが殺されています。これは食べられる数ではなく、食用になれない身体の弱い個体を廃棄する数です。
人間が生きるために効率の良い生産が求められ、その結果多くの命が失われていきます。これも、生きるためには仕方がないの論理と言えます。
こうした目を向けたくない人間の本質や非情さをありありと描いたからこそ、『羅生門』は高い評価を得て読み継がれてきたのではないのでしょうか。
『羅生門』と『今昔物語集』の違い
『羅生門』は『今昔物語集』から題材を取って創られました。(「巻二十九第十八 羅城門登上層見死人盗人語(羅生門の上層に登りて死人を見る盗人のこと)」並びに「巻三十一第三十一 大刀帯陣売魚嫗語(帯刀の陣に魚を売る嫗のこと)」)
ですが、元の作品と『羅生門』の違いはたくさんあります。
一部を例に挙げるとこんな感じです。
『羅生門』 | 『今昔物語集』 | |
主人公 | 下人 | 盗人 |
門の名称 | 羅生門 | 羅城門 |
羅生門にいた人 | 老婆 | 嫗 |
女(死体) | 蛇を売っていた | 嫗の主人 |
下人が奪ったもの | 老婆の着物 | 嫗の着物と死体の着物と鬘 |
もし時間に余裕があれば、それぞれの作品の相違点から『羅生門』を読んでみると、面白い発見があるかもしれません。
時間がない方は、『羅生門』の元ネタがあるんだ〜くらいに思っておいて、参考までにその違いを上の表で見ていただければ嬉しいです。
以上、『羅生門』のあらすじと考察と感想でした。
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