『藪の中』とは?
『藪の中』は1922年に発表された芥川龍之介の小説です。時は平安時代。盗人に襲われた夫婦の事件を、目撃者や当事者たちが検非違使(裁判官)に向かって一人ずつ語っていく形式で物語が進んでいきます。
実はこの物語、真相が分からずに終わってしまいます。登場人物どうしの証言に矛盾が見られるからです。
そのために作家や評論家の間で様々な議論が起こりましたが結局真相は掴めず、「真相は藪の中」という言葉の語源にまでなりました。
世界的に有名な映画監督・黒澤明が映画化したこともあって、『藪の中』は芥川文学の中でも作品でもよく知られている作品となっています。
『藪の中』-あらすじ
『藪の中』は七人の登場人物の話で構成されています。
それぞれ章立てられているので、ここではその順番通りに各章の話の要点を抜き出していきます。
- 木樵りの物語――藪の中で男の死骸を発見した。周りは荒れていた。
- 旅法師の物語――旅の道中で夫婦とすれ違った。男は弓や太刀を持っていた。
- 放免の物語――捕らえた多襄丸(犯人)が男の弓や太刀を持っていた。
- 媼の物語――優しかった婿がこうなったのは残念だが、今は娘がどこへ行ったのか知りたい。
- 多襄丸の白状――女が勝った方の妻になると言うので太刀打ちの斬り合いをして男の胸を突いた。女はその間に逃げた。
- 清水寺に来た女の懺悔――盗人が去った後、夫に殺せと言われたので小刀で胸を刺した。夫を殺したのは私だ。
- 巫女の口を借りたる死霊の物語――妻が盗人に俺を殺せと言った。盗人が近づいてくると妻はそのすきに逃げた。俺は落ちてあった小刀で自分の胸を突いた。
・『藪の中』-概要
主な登場人物 | 武弘、真砂、多襄丸 |
主な舞台 | 山科の駅路から四、五町ほど隔たった藪の中 |
時代背景 | 平安時代 |
作者 | 芥川龍之介 |
山科は京都府の東にある地区。東からくる旅人は滋賀と京都の境にある関山を通り山科から都へ入る。
-解説(考察)-
・登場人物が分かりにくい?キャラクターの整理と語り方の違い
『藪の中』で少し分かりにくいのが登場人物です。
木樵りと旅法師はなんとなく分かりますが、放免あたりからあやしくなってきます。
ここでは登場人物の役割を解説していきながら、誰がどの登場人物なのか整理していきます。
- 「放免」――犯罪人を捕らえるために働く元罪人のことを放免と言います。検非違使の下部であり、今で言うと警察官の役割をしています。
- 「媼(おうな」)――事件に巻き込まれた女の母です。ですので婿(武弘)が殺されたことになり、娘(真砂)は行方不明となっています。
- 「多襄丸(たじょうまる)」――盗人です。真砂を一目見て自分のものにしたいと思い、肌を盗みます。
- 「清水寺に来た女」――事件に巻き込まれた女の真砂です。事件後に行き場がなくなり、清水寺に逃げ込んだのだと考えられます。
- 「巫女の口を借りたる死霊」――殺された男である武弘(たけひろ)です。霊となって物語を語ります。
以上の登場人物に加えて、彼らの話を聞いている検非違使がいます。
検非違使は治安維持の組織で、この物語では裁判官の立場として描かれています。
放免は検非違使の下部なので、自分の手柄を大きく見せて褒美を少しでも多くもらおうとする様子が語りにも現れています。
また、旅法師は「さあ」や「はっきり存じません」や「分かりません」などはっきりしない人物のように語り、多襄丸は検非違使を挑発して食ってかかろうとする様子が語りに出ています。
このように、『藪の中』は語りの違いに注目して読むとより深いキャラクターの理解に繋がります。
・物語の真相は?
『藪の中』の真相を分からなくさせているのは、武弘と真砂と多襄丸の陳述が食い違っているからです。
もっとも大きな相違点は、
・真砂が藪の中から逃げ出したタイミング
・縛られていた武弘の縄が解けたタイミング
・武弘の死因と殺した人物
この三項目。これらが三者三様であり、時系列的に矛盾が生じています。
誰が何を言っているのか、下に具体的な順序をまとめました。
○多襄丸の主張
- 太刀打ちをするために男(武弘)の縄をほどいた。(縄)
- 俺の太刀が男(武弘)の胸を突いた。(死因)
- 女(真砂)は気がついたらいなくなっていた。(逃亡)
○真砂の主張
- 気を失っていた。(逃亡)
- 二人で死のうと思い夫(武弘)の胸を小刀で刺した。(死因)
- 冷たくなった夫(武弘)の縄をほどいた。(縄)
○武弘の主張
- 盗人(多襄丸)が俺に近づいてきた隙に妻(真砂)は逃げた。(逃亡)
- 盗人(多襄丸)が俺の縄を一箇所だけ切り、後は自分で解いた。(縄)
- そのあと自害した。(死因)
それぞれが全く違うことを述べているのが分かりますね。
ちなみに言うと、真砂の主張がもっともあやふやな点が多く、怪しい人物です。
この物語の真相は学術的にもまだ答えが出ていないので、我こそは!と言う人は挑戦してみてください。
もしかすると整合性のとれる抜け道があるのかもしれません。
-感想-
・短編集のような構成が面白い
この物語の構成をみてみると、それぞれの登場人物の語りで章が別れているのが分かります。
具体的には以下の七章です。
- 検非違使に問われたる木樵りの物語
- 検非違使に問われたる旅法師の物語
- 検非違使に問われたる放免の物語
- 検非違使に問われたる媼の物語
× × × - 多襄丸の白状
- 清水寺に来たれる女の懺悔
- 巫女の口を借りたる死霊の物語
(間に「× × ×」と入っているのはこの物語の前半と後半を分けるため)
このように見てみると、物語は目撃者→当事者へと進み、内容はよりディープになってゆきます。客観→主観へと移り変わっているといっても良いでしょう。
いずれにせよ物語が効果的に深化するような順序になっています。
木樵りの章では木樵りが、多襄丸の章では多襄丸がそれぞれ主人公となっており、まるで『藪の中』という短編集のようでもあります。また、副題も「○○の物語」と独立性が強調されています。
部屋の中央に置いたリンゴを様々な角度から見るように、七人の登場人物それぞれの視点から物語を見ることができる面白い構成の小説です。
・みんなが主人公になりたがっている?『藪の中』の利己的な語り
藪の中を読んで感じたのが、全ての登場人物が主人公だということです。
普通のミステリーならば、事件があって犯人候補がいるわけですが、おそらく自分がやったとは言わないでしょう。
しかし『藪の中』の当事者たちは皆が皆「自分が殺した」と言い、皆が皆「自分が武弘の縄を解いた」と言います。これはほんとうに変です。
各々が犯人になりたがっていて、目立ちたがっている様にも思えます。
また、木樵は断定的な物言いでどこか威張っているようにも見えますし、媼は悲劇のヒロインになりきっています。
事件を外側から見つめる登場人物たちも、少しの時間で僅かでも自分の印象を残そうと努めており、その様子はまるで役者のオーディションのようです。
このようにみてみると、『藪の中』という小説は、検非違使を含めた8人の人生の物語なのかなという気がします。
自分を主人公にした物語は自分をよく見せたいと思うのが人間の性ですので、そうした利己的な語りが『藪の中』という物語の矛盾を生んだのではないかと僕は考えます。
ちなみですが、芥川は『桃太郎』のなかでこういうセリフを残しています。
その女人を奪って行ったというのは――真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。
芥川龍之介『桃太郞』
『藪の中』でも、真砂の主張がもっともあやふやで、あやしい人物です。
みなさんも『藪の中』の真相を考えてみて、ぜひ作品を楽しんでください。
芥川龍之介『桃太郞』の解説記事はこちら▽
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芥川龍之介の『桃太郎』が面白い!たった3分で昔話との違いを解説
以上、『藪の中』のあらすじと考察と感想でした。
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