『地獄変』とは?
『地獄変』は芥川龍之介の短編小説です。
地獄の様子を描いた「地獄変相図」という屏風を、高名な絵師である主人公・良秀が描いていく物語で、その絵にまつわる狂気的で芸術的な出来事が語られていきます。
その芸術性に長けた作風は発表当時から高い評価を受け、芥川の芸術至上主義文学とまで言われました。
-あらすじ-
主人公の良秀は右に出るものはないと言われるほどの高名な絵師です。
しかし性格に難があり、芸術のためなら弟子を鎖で縛ったりミミズクに襲わせたりと、狂気的な人物です。
また自信の才能にうぬぼれており、身分もわきまえず殿様に向かって意見することもしばしばあります。
そんな良秀にもたったひとつ人間らしいところがあります。それは娘をこの上なく可愛がるという点です。
娘は利口で美しく、大殿にも抱えられており、身分こそ低いものの、邸もで人気があります。
そんな中、良秀は大殿の言いつけで「地獄変」を描くことになります。芸術のことになるとあの娘のことすら目に入らないほどの集中力を見せる良秀ですが、どうしても最後の牛車が燃えさかる場面を描くことが出来ません。
良秀は大殿に、「私は見たものしか描けないので、どうか牛車の中に美しい女を入れて燃やして欲しい」と頼みます。
大殿は愉快そうに了承し、後日、実際に美しい女を入れた牛車を燃やします。ところがなんと、中に入れたのは良秀の娘でした。
良秀は一度は絶望しますが、しばらくすると恍惚とした表情を浮かべ、燃えさかる娘と牛車を眺めます。
秀良はその後「地獄変」を完成させますが、翌日に首を吊って自殺します。
その絵はこの上ない出来映えで、後にまで傑作として語り継がれますが、そのころには良秀の墓すら誰も知るものはいません。
・『地獄変』-概要
主人公 | 良秀 |
物語の仕掛け人 | 堀川の大殿様 |
語り手 | 大殿に二十年来奉公している老侍 |
主な舞台 | 堀川の邸 |
時代背景 | 平安時代 |
作者 | 芥川龍之介 |
堀川の大殿様のモデルは諸説ありますが、平安時代に栄えた藤原家の誰かだろうというのが一般的です。
-解説(考察)-
・『地獄変』はどこが芸術的なの?
『地獄変』はしばしば芸術的な作品として名が挙がります。けれども一体どこが芸術的なのでしょうか?
その疑問を解決するには二つのポイントを見ると分かりやすいと思います。
ひとつは、主人公の良秀が芸術の完成のためなら何でもするという狂気的な人間であるということでしょう。
見たものしか描けないという良秀は、地獄の鬼に責められる人間を描くために弟子を鎖で締め付けたり、怪鳥に襲われる人間を描くためにミミズクに弟子の目を潰させようとしたりします。
ほかにも芸術家的な行動は作中で描かれていきます。
芸術のことになると周りが見えなくなったり、芸術のためなら何でもするという良秀の狂気的な芸術家像を芥川は上手く描いています。
ふたつめは、最も愛した娘を目の前で焼かれ、その光景で絵を完成させるという作品の構成です。
唯一愛した娘を焼かれる場面の良秀の表情は初めこそ絶望していたものの、次第に恍惚としたものになっていきます。
良秀が望んだわけではないですが、唯一愛した娘さえも芸術へと昇華する材料にするという構成が、芸術至上主義を分かりやすく描いています。
また、きらびやかな着物をまとった美しい娘が豪華な牛車の中で燃えさかる描写は圧倒的な印象を持って読者にその映像を投げかけます。地獄変の情景描写はなかなか頭にこびりついて離れません。
以上をまとめると、
- 芥川が主人公を狂気的な芸術家らしく描くことに成功した。
- 芸術のために全てを捧げるという作品の構成と燃えさかる炎の描写。
この二点が、『地獄変』を芸術的な作品と言わしめている主な理由だと考えられます。
・語り手の話は信憑性に欠ける!?登場人物の整理
この作品でキーとなる登場人物は、良秀・大殿様・良秀の娘・猿・老侍(語り手)の五人です。
ここでは、それぞれの役割を簡単に解説します。
- 良秀――――主人公で天才的な絵師。正確に難があるが、娘のことだけは愛している。
- 大殿――――邸の殿様。芸術趣味で良秀に「地獄変」を描かせる。
- 良秀の娘――利口で美しく愛嬌があり、邸のものから愛されている。大殿に気に入られている。
- 猿―――――度々人間のようなそぶりをする。良秀の娘になつき、娘が燃やされたとき自ら火の中に入って死ぬ。
- 老侍――――『地獄変』の語り手。主観的な語りなので、読者は語り手の真意を読むことが試される。
以上が『地獄変』の主な登場人物です。この作品で注意しなければならないのが語り手の存在です。
語り手は20年来大殿に仕えている老侍ですので、何があっても大殿を否定するようなことは言いません。
なので、彼の言葉を全てそのまま受け入れるわけにはいきません。
そこで注意して読んでみると、語り手の言葉の節々からは、彼が話している内容とは裏の解釈が読み取れます。
具体的には、「大殿が良秀の娘など好むはずがない」という言葉などがそうです。
作中(十三章)で良秀の娘が、夜中に乱れた袴で何者からか逃げる場面がありますが、前後の文章からその者が大殿であることが分かります。
また、語り手は大殿をたいそう立派な人物であるとして語ります。
しかし、大殿が橋を作るときに子どもを生け贄にした話や、牛車と女を焼いてくれという秀良の願いを聞き入れたときの愉快そうな大殿の様子からは、とても大殿が立派な人物であるとは信じられません。
このようなことから、『地獄変』の語り手の言葉は全て信じない方が良いと言うことが分かります。
語り手の嘘を見抜いて真実を読み取るということが試される作品になっています。
ちなみに、芥川龍之介の『河童』や、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』なども、「語り手の嘘」が見られる作品です。
解説を知りたい方はこちらの記事をどうぞ▽
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-感想-
・猿の「良秀」の存在理由とは?地獄変の屏風が持つ意味
『地獄変』では物語の途中から猿が出てきますが、僕がこの作品で気になったのは猿の存在です。
この猿は丹波国から送られてきたもので、若殿が良秀をからかってその猿に「良秀」というあだ名を付けます。
ある日、「良秀」は悪さをして折檻されていたところを良秀の娘に助けられ、それ以来娘になつきます。
その後、猿の良秀は病気になった娘を心配したり、言い寄られている娘を助けるために人を呼んだり、何かと娘を救っています。
この様子は、まるで親である良秀の代わりに猿の「良秀」が娘を助けているようにも見えます。
さらには物語の最後、娘が炎に焼かれる場面ですが、邸に繋がれていたはずの「良秀」がどこからかやってきて、娘のもとへ飛び込み一緒に炎に包まれます。
娘がどんなに救われたであろうかは想像に難くありません。
そして、最後の場面で良秀の表情から絶望の色が消えたのも、猿の「良秀」が炎に飛び込んでからです。
良秀自身も、猿が娘の救いになったことを理解していたようにも思えます。
このようなことから、猿の「良秀」は物語に救いを与える役割として描かれていることが分かります。
地獄変の屏風は「周りに様々な罪人と獄卒を描き炎の燃えさかるその中央に、美しい女房を乗せた牛車が空から落ちている」という構図です。
これだけを見れば恐ろしいですが、このあとに中央の女房が何かによって救われるのだとしたら、良秀の地獄変の屏風の意味は大きく変わってくるでしょう。
見てきたように、『地獄変』という物語は大きな地獄を描きますが、たったひとつの救いも見えます。
地獄という悪魔的なものと少しの救いの光が交わることで、悪魔的な美しさのある芸術的な作品となっているのではないでしょうか。
以上、『地獄変』のあらすじと考察と感想でした。
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