ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
芥川龍之介『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p70, 文藝春秋,1997
作品紹介
芥川が児童向けの童話を書いたのは『蜘蛛の糸』が初めてで、それから『杜子春』や『犬と笛』などの童話も「赤い鳥」に掲載されてゆきます。
ではそんな『蜘蛛の糸』のあらすじをまずは見ていきましょう。
『蜘蛛の糸』-あらすじ
一.
ある日の朝のことです。お釈迦様が蓮池のふちを歩いていました。
池の蓮は好い匂いをあたりに充満させています。
その池は地獄と通じているので、お釈迦様はふと地獄の様子をご覧になりました。
すると犍陀多(カンダタ)という大悪党がほかの罪人にまぎれて蠢いているのが見えました。
色々悪事をはたらいた犍陀多ですが、一度だけ善いことをしたことがあります。
あるとき蜘蛛が犍陀多の足下に現れました。犍陀多はこれを踏み潰そうと思いましたが、「小さいとはいえ命あるものだ。無闇に奪るのはよくないだろう」と考え、踏みとどまりました。
お釈迦様はこれを思い出されて犍陀多を救ってやろうと考え、極楽にいる蜘蛛の銀色の糸をとってきて、蓮の池から地獄へ垂らしました。
二.
こちらは地獄で、犍陀多は地獄の重苦しい雰囲気と責め苦に疲れ果てていました。
ところがあるとき、犍陀多が血の池の暗い空を何気なく見上げると、自分の方へ向かって一本の銀の糸がそうっと下りてくるではありませんか。
犍陀多は手を打って喜び、さっそく蜘蛛の糸をつかんで地獄から抜け出そうとのぼっていきました。
疲れたところでようやくのぼるのをやめて下をのぞくと、先ほどいた血の池ははるか下でほとんど見えなくなっています。
犍陀多は思わず「しめたしめた」と笑います。ところが下をよくみてみると、なんと地獄の罪人たちが糸に群がっているではありませんか。
犍陀多は驚いたのと恐ろしいのでしばらくは口を開けてぽかんとしていたのですが、やがて気を取り戻すと罪人たちに向かって喚き始めました。
「やい罪人ども!この蜘蛛の糸はおれのものだぞ!誰に断ってこの糸に上っているんだ!おりろ、おりろ!」
その途端です。蜘蛛の糸は犍陀多のもっていたところからぷつりと音を立てて切れてしまいました。
ですから犍陀多は暗の底に真っ逆さまに落ちていきました。
あとにはただ短くなった銀色の蜘蛛の糸が空中にぶら下がっているばかりです。
三.
お釈迦様はやはり蓮池のふちからこの様子をご覧になっていましたが、やがて犍陀多が血の池の底に沈んでいくのを見ますと、悲しそうな顔をしながらまた蓮池のふちをぶらぶらお歩きになり始めました。
自分のことばかり考えて罰を受けてまた地獄へと戻ってしまった犍陀多を見て浅ましく思われたのでしょう。
しかし極楽の蓮池の蓮はそんなことには頓着しません。あいもかわらずやはり好い匂いをあたりに溢れさせています。
極楽ももう午近くになったのでございましょう。
『蜘蛛の糸』-解説(考察)
『蜘蛛の糸』-概要
主人公 | カンダタ(犍陀多) |
物語の仕掛け人 | お釈迦様 |
主な舞台 | 地獄と極楽 |
時間設定 | ある日の朝から昼にかけて |
作者 | 芥川龍之介 |
なぜ蜘蛛の糸は切れたのか?
なぜ蜘蛛の糸は切れてしまったんだ?
下にあるのがその文章です。
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
芥川龍之介(1997)『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p74, 文藝春秋.
とても苦しい地獄で自分のところに救いの糸が垂れてきたのに、他の人も沢山のぼってきて糸が切れそうになると誰だって焦らないか?
「ああ、沢山のぼってきたな。じゃあみんなでわいわい上ろうか。」ってなるか?
そんなのとんだおとぼけものだぜ。
もしかすると、このお話は教訓を述べたい訳ではなかったのかもしれません。
『蜘蛛の糸』のテーマは?
純粋なものの美しさ
私が歩き、蓮池を覗き、蜘蛛の糸を垂らします。犍陀多さんは蜘蛛の糸を見て、それにのぼり、また地獄へと落ちてしまうといった具合にです。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
犍陀多さんがまた地獄へ落ちてしまった事にも、私がそんな人間を見て浅ましく思っている事にも頓着しないというのです。
様子 | |
犍陀多 | 利己心でまた地獄に落ちる |
お釈迦様 | 悲しげな表情で人間の性を浅ましく思っている |
蓮池の蓮 | 何にも頓着せずゆらゆら萼を揺らしている |
つまり芥川は善や悪といった世俗のことを物語のメインにおきながら、それらに関わらない存在としての蓮を描くことで、蓮のような純粋なものを上位に位置づけているのです。
さらに、『蜘蛛の糸』が童話である事を考慮すると、蓮は純粋で虚飾のない児童を重ねて描かれていると捉える事もできます。
ポール・ケラスの「因果の小車」だとも言われていますが、どちらの話にも蓮の花の描写は出てきません。
『蜘蛛の糸』のテーマは教訓的なものではないの?
「赤い鳥」についてはここに少し引用しましょう。
森鴎外、島崎藤村、小川未明、北原白秋らをはじめとして、多くの文壇人が三重吉の趣旨に賛同し、執筆したのであるが、芥川もその一人であった。
吉田精一編『近大文学鑑賞講座 月報』,p1,角川書店,1958.
あ、新美南吉の『ごんぎつね』も「赤い鳥」の作品なんだ!
島崎藤村・菊池寛・芥川龍之介などの記事はこちら!>> 近代文学作家一覧
そしてこの「赤い鳥」を主宰した鈴木三重吉にはあるモットーがありました。
既存のおとぎ話よりも文学的要素の強い童話を子どもたちへ提供しようという趣旨でつくられたようですね。
『蜘蛛の糸』-感想
誰かに引っ張り上げてもらっているという感覚
すでに触れているように、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は「赤い鳥」の創刊号を飾りました。
当時の芥川は新進気鋭で、「赤い糸」の主宰者である鈴木三重吉が出来上がった『蜘蛛の糸』の原稿を見ると、「旨いねえ、水ぎわだっていやがらあ」と感嘆したそうです。¹
鈴木三重吉という人は夏目漱石の門下生で、漱石に推薦されて作家活動を始めました。
そして芥川龍之介は漱石門下の先輩である鈴木三重吉の薦めで『蜘蛛の糸』を執筆します。
つまり、漱石が鈴木三重吉を引っ張り上げ、鈴木三重吉が芥川龍之介を引っ張り上げている形です。
この上から引っ張り上げるという構図がどことなく『蜘蛛の糸』の描写に似ているような気がしてなりません。
社会にしても文壇にしても、人が成長するにあたっては多くの場合上から引っ張り上げてもらうことになります。
自分だけが上っていくんだという気持ちではなく、誰かに引っ張り上げてもらっているという深層意識が『蜘蛛の糸』の創作にも現れているような気がします。
以上、『蜘蛛の糸』のあらすじと考察と感想でした。
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