芥川龍之介

芥川龍之介『鼻』の解説と考察|なぜお坊さんは鼻がコンプレックスなのか?

2019年3月9日

禅智内供の鼻と言えば、で知らない者はない。

芥川龍之介『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p19,文藝春秋,1997.

作品紹介

禅智内供
『鼻』は芥川龍之介の小説。かの夏目漱石が称賛したことで有名なじゃわな。

上品なユーモアのある作風が漱石の心をこそばしたのであろ。

ここではそんな『鼻』のあらすじや解説を、私たちと一緒にみていきましょう!
小僧さん
小僧さん

『鼻』-あらすじ

・まずは登場人物に聞く簡単なあらすじ

禅智内供
わしの鼻のことを池の尾で知らないものはない。

わしの鼻は唇の上から顎の下にまで垂れ下がるほど長いからじゃ。

あれ?でも今は鼻が短いですね。
小助
禅智内供
これは丁度よい画像がなかったのじゃ。
画像?なんのことですか?
小助
禅智内供
まあよいではないか。ともかくわしはこの鼻のために幼い頃から苦しんできた。

周りには気にしている事を悟られないようにしながらな。

その気持ちはよく分かります。
小助
禅智内供
この鼻を短く見せるためには色々な工夫を凝らしたものじゃ。

短く見える角度を探したり、ときには鼠の尿を鼻にかけたこともあった。

鼠の尿はとても臭いらしいですね。
小助
禅智内供
耐えがたきにおいじゃった。それでもわしの鼻は短くならない

ところがある日、弟子の僧が医者から治療法を教えてもらってきた。

どんな治療法なんですか?
小助
禅智内供
鼻を湯で茹でて人に踏んでもらうというものじゃったが、わしはそれを実践した。

踏んでもらうと鼻から粟粒のようなものがでてきて、それを毛抜きで抜くと驚いた事に鼻は小さくなりおった。

弟子ナイスですね。
小助
ありがとうございます。
小僧さん
小僧さん
禅智内供
これで誰も笑うものはないと思うて、わしは久しぶりにのびのびとした満ち足りた気持ちになった。

ところがじゃ、気がついてみると周りが以前よりもわしの鼻を見て笑うようになっておる。

えっ!なんでなんでしょう?
小助
禅智内供
そんなことはそこの小僧にでも聞くとよい。
申し上げにくいことでございますが、内供様の長かった鼻が短うおなりになって皆が物足りなく思ったのでございましょう。
小僧さん
小僧さん
禅智内供
そうじゃろうな。鼻の長かった頃よりもかえって嫌な笑い方じゃったわい。

皆がしきりに笑うものだから、しまいには鼻の短うなったのを自分で恨めしく思うようにさえなった。

あの頃の皆の態度は許せませんね。
小僧さん
小僧さん
禅智内供
お前も笑っとったよ。
・・・(ばれてたか)。
小僧さん
小僧さん
禅智内供
ところがある夜、鼻がしきりにむず痒くなった。

長いのを無理に短うしたで病でも起こったかとわしは思った。

鼻が変だったんですね。
小助
禅智内供
次の日の朝。庭は銀杏の落ち葉で黄金を敷いたように明るい。

わしは起きてその庭を見ると深く息を吸い込んだ。そのとき、ほとんど忘れていた感覚がわしに帰ってきたのだ。

おねしょですか?
小助
禅智内供
違うわい。思わず鼻に手をやると、わしは鼻が元の大きさに戻ったのを知った。

そして同時に、鼻が短くなったときと同じようなはればれとした気持ちがどこからか帰ってくるのを感じたのじゃ。

短い鼻を惜しむことはなかったんですか?
小助
禅智内供
ああ、わしはもうこれで誰も笑うものはないに違いないと自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながらな。

これで話はおしまいじゃ。

おしまいでございます。
小僧さん
小僧さん
面白かった!どうもありがとうございました。
小助

・文章で読みたい人向けのあらすじ

禅智内供の鼻を池の尾で知らないものはない。

その鼻は五六寸もあり、上唇の上から顎の下まで長く伸びている。

内供の歳はもう五十にもなるが、子どもの頃から自分の鼻を気に病んでいた

表面的にはさほど気にしていないという風を装っていたのであるが、内心は経文に鼻という言葉が出てやこないかということにすらビクビクしていた。

内供が鼻を持て余した理由は二つある。

一つは実際的に鼻の長いのが不便であった。そしてもう一つは――実はこちらが主な理由なのだが――鼻によって傷つけられる自尊心である。

池の尾では内供の鼻について心ないことを言うものもいた。そこで内供はその自尊心の毀損を快復しようと、積極的・消極的にかかわらず色々な事を試した

まず内供は実際よりも鼻を短く見せることのできる色々の角度を探した。けれども短く見える角度を発見できることはなかった。

次に内供は自分と同じ鼻を持っているものがいないか探した。同類を見つけて安心したかったのである。けれどもやはり内供のような鼻を持つものは一人も居なかった。

最後に内供はあらゆる書物の中に同じような鼻を持つものが居なかったか探した。耳の長いのは見つかったけれども鼻の長いのは見つからない。内供はこれが鼻だったらどんなに自分は心細くなくなるだろうと思った。

そうした消極的な苦心をしながらも、もちろん積極的に鼻の短くなる方法もできる限り試した。

烏瓜を煎じて飲んでみた事もある。鼠の尿を鼻へなすってみた事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げている。

ところがあるとき弟子の僧が知己の医者から鼻の短くなる法を聞いてきた。

その法は湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるというものだった。

内供がこれを試すと、長かった鼻は今までのことが嘘だったように小さくなった。これでもう誰も笑うものはあるまいと思い、内供は満足した

翌日になっても鼻は短いままである。内供は安心して、久しぶりにのびのびとした好い気持ちになった。

ところが二、三日経ったところで内供は意外な事実を発見した。周りが前よりも自分の鼻を見て一層笑うようになったのである。

これはわしの鼻が短うなったからに違いない。そう気がついた内供は人々の意地の悪さに腹が立ったが、しまいには小さくなった自分の鼻を恨めしく思うようにさえなった。

するとある夜のこと、内供は鼻がむずがゆくて眠れなかった。大きかったものを変に小さくしたので病でも起こったのかもしれん。内供は鼻を手で恭しく押さえながらそういった。

次の日の朝、起きてみると外の庭は銀杏の落ち葉で金色にきらめいている。内供には何か懐かしい感覚がかえってきてふと鼻を触った。そして鼻がもとのおおきさにもどっていることを知った。

すると内供は鼻が短くなったときと同じような晴れ晴れとした気持ちがもどって来るのを感じ、長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら、これでもう誰も笑うものはないだろうと自分に囁いた。

『鼻』-解説(考察)

・『鼻』-概要

主人公 禅智内供(ぜんちないぐ)
物語の仕掛け人 弟子の僧
主な舞台 池の尾の寺(京都宇治市)
時代背景 平安時代
作者 芥川龍之介
禅智内供
内供(ないぐ)とは宮に入り天皇に奉仕する高僧のことじゃて。わしも一応えらかったんじゃよ。

・『鼻』で芥川龍之介が伝えたかった事は何か

傍観者の利己主義って?

『鼻』で作者が伝えたかった事はなんなのでしょう?
小助
禅智内供
全体的に見れば「人間のエゴイズム」について、もう少し的を絞れば「傍観者の利己主義」について描かれておるの。
傍観者の利己主義ですか?
小助
禅智内供
うむ。傍観者の利己主義とは、簡単に言うなればメシウマってやつじゃの。
「メシウマ」って他人が不幸になるのを見て喜びを感じる意であるあのネット用語ですか?
小助
禅智内供
そうじゃ。ただし、この『鼻』に出てくる僧俗たちの感情はもう少し複雑じゃ。

具体的には、彼らは人の不幸を見て面白がるが、その人が不幸を克服するとそれはそれで物足りなくなる。もっと言えばその人をまた不幸にしてやりたいとさえ思うのじゃよ。

なんだか嫌な感情ですね。
小助
禅智内供
うむ。じゃが、残念ながら人間はこのような感情を持っておる。

もっと残念なのは、本人がそうした感情を持っている事に気づいていないという事なのじゃがな。

気をつけないといけませんね。
小助

・芥川文学に共通する願いの成就と失望

願いは叶うと色褪せる?

『鼻』では、一度は短くなった鼻が結果的にはまた元の大きさに戻っていますね。

これはどういうことなのでしょうか?

小助
禅智内供
そうじゃな。これはつまり、願っていたことが叶うのは嬉しいことじゃが、いざ叶うとなれば思わぬ弊害がある、ということを表しておる。

実は、芥川が書いた『芋粥』も同じような物語になっておるの。

芋粥をたらふく食べることが夢の五位の話ですね。
小助
禅智内供
うむ。五位も願いが叶うのじゃが、結局は腹一杯になって苦しむ。

二つの作品に共通しているのは、どちらも願いが叶ったときの現実を描いており、願いが叶って幸せになった訳ではないということじゃ。

ハッピーなはずなのにどうしてなんでしょう?
小助
禅智内供
たとえば、宝くじなんかがいい例じゃろうな。当たる前はあれこれ想像して楽しいが、いざ当たると不幸になる者が多い

こうした問題は「幸福とは何か」を考える上で非常に重要であるように思うのう。

人の評価一時的な快楽物質的な満足が必ずしも幸福をもたらすわけではないということですね。
小助
禅智内供
うむ。こうした作品たちを見ると、芥川がそうしたものごとの本質を鋭く捉えていたということが分かるの。
願いは叶うと色褪せる。芥川龍之介らしい価値観のように思います。
小助

・身体的コンプレックス

性的な隠喩としての『鼻』

禅智内供
ところで、作者の芥川龍之介は性欲が旺盛だったことで有名じゃ。

夏目漱石が大学で芥川を初めて見たとき、「血氣未だ定まらざるとき、之を戒しむる色に在り(若いときはまだ血気が安定していない。戒めるべき点は色欲にある)*1」と訓したそうな。

これは『論語』の言葉で、「若いとき色欲にまかせて遊んでいると過ちの元となるよ」という意味じゃ。

初対面でそんなことを!
小助
禅智内供
それに対して芥川は「夏目先生はおそろしい。」「夏目先生に一と目で見破られた。」*2と友人に言っていたそうじゃ。
自他共に認める旺盛ぶりだったということですね。
小助
禅智内供
うむ。さらに、芥川の男性的な男性的部分はほかの者に比べてずいぶん大きかったそうな。

友人で後輩にあたる小説家の小島政二朗も「だつて、芥川さんのは憎らしいほど大きいんだもの」と笑いこけた*3ほどじゃ。

可笑しいほど大きかったんですね。
小助
禅智内供
じゃが、なにも大きければよいと言うわけでもない。

いざという段になるとその大きさに女性が驚き拒絶されるというのもよく聞く話じゃからの。

持つ者の悩みですか。
小助
禅智内供
そうしたことを踏まえて『鼻』を読むと、どうも「鼻」というのが男性的なものの暗喩のように思えるの。
なるほど。
小助
禅智内供
まず長さや形から言ってそうじゃ。

「長さは五六寸あって(中略)形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っている」

芥川龍之介『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p19,文藝春秋,1997.

たしかにそう思えばそうとも取れるような、、、
小助
禅智内供
ちなみに一寸は3cmほどじゃ。まあこんなのは遊びみたいなものじゃがな。

ともかく芥川龍之介は身体的コンプレックスに着目して物語を描いたというわけじゃな。

ということは、物語の最後に「はればれとした気持ち」が戻ってきているので、精神的にコンプレックスを乗り越えた自己肯定の話とも読めますね。
小助

『鼻』-感想

・誰にだってコンプレクスはある

初めて読んだのは大学生の頃ですが、「僕って禅智内供だっけ?」と思うくらい内供の気持ちに共感したことを覚えてます。

人には大なり小なりコンプレックスがあると思いますが、僕にもやはり身体的なコンプレックスがあって、小学校の頃からそれをとても気にしていました。

内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりもれていた。

芥川龍之介『鼻』

内供と同じように、僕も人からコンプレックスについての言葉が出てくることに恐怖していました。

過度な自意識ですが、その言葉を聞いた誰かが僕を連想してしまうかもしれないという他人の想像力が怖かったのですね。

ハゲている人が禿げの話題になると居たたまれない気持ちになると思いますが、それと同じ感覚です。

みなさんの中にも、背が小さいだとか耳が大きいといった身体的コンプレックスを抱えている人は少なくないはずです。

芥川龍之介の『鼻』はそんな人々のコンプレックスを冷静にみつめて笑い飛ばす、ユーモアのある小説であるように思います。

僕の大好きな芥川作品の一つです。

・『鼻』の原作について

芥川龍之介の『鼻』には原作が存在します。

今昔物語集』 巻二十八の二十 「池尾の禅珍内供の鼻の物語」と、『宇治拾遺物語』 巻二の七 「鼻⻑き僧の事」の二つです。

芥川はほかにも『羅生門』や『芋粥』など、今昔物語から題材を取った作品がいくつかあります。

『鼻』もその内のひとつで、芥川の「王朝物」と呼ばれたりもします。

少しマニアックな話ですので、原作としてそんな作品があったんだなくらいに思っておくと良いと思います。

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以上、芥川龍之介『鼻』のあらすじと考察と感想でした。

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