『セロ弾きのゴーシュ』とは?
『セロ弾きのゴーシュ』は、演奏が下手なチェリスト・ゴーシュと、彼のもとにやってくる小動物たちの物語。
宮沢賢治が書いた最後の童話で、死の直前まで推敲が重ねられていました。
ここではそんな『セロ弾きのゴーシュ』のあらすじ・解説・感想をまとめています。
『セロ弾きのゴーシュ』のあらすじ
ゴーシュは楽団で一番下手なチェリストです。
一週間後に演奏会が控えているため、楽長はピリピリしています。
ゴーシュは家に帰って猛特訓するのですが、深夜になるとなぜか小動物たちが彼の家にやってきます。
猫、かっこう、狸、野ねずみが、毎日変わってやってくるのです。
実は彼らが来る理由は、ゴーシュのチェロを聞くと病気が治るからでした。
そのことを知ると、彼は病気を治すために曲を弾いてあげました。
演奏会当日、彼の楽団は大いに成功しました。
アンコールになり、ゴーシュ一人が舞台に引っ張り出されます。
彼はやけくそになって曲を弾き、素早く楽屋に逃げ込みました。
しかしみんながゴーシュの演奏を褒め、楽長までも彼の演奏を認めます。
その晩遅くに彼は家に帰ると、かっこうが来たときの無礼を思い出し、空を見ながらひとり謝るのでした。
・『セロ弾きのゴーシュ』の概要
主人公 | ゴーシュ |
物語の 仕掛け人 |
小動物たち |
主な舞台 | ゴーシュの家 |
作者 | 宮澤賢治 |
-解説(考察)-
・小動物たちは何を意味するか?
『セロ弾きのゴーシュ』は、小動物たちが代わる代わる登場します。
ゴーシュは彼らを通して、演奏を上達させていくのです。
ここでは、
- 小動物たちとの交流は何を意味しているのか?
- ゴーシュがそれぞれ何を得たか?
をみていきます。
・猫
はじめにゴーシュの家にやってきたのは猫です。
ゴーシュは猫にトロメライ(トロイメライ)を演奏してくれと頼まれますが、意地悪な気持ちから「印度の虎狩」という曲を弾きます。
それを聞いた猫は、あまりの演奏の酷さに苦しんで飛び上がります。
この猫との交流は、ゴーシュの演奏が誰にとっても聴けたものではないことを表しています。
・かっこう
次に家に来たのはかっこうという鳥です。
ゴーシュはかっこうと音程の練習をすることで、音感を鍛え上げていきます。
またかっこうとの交流から、ゴーシュは少しづつ相手の声を聞き入れるようになっていきます。
・狸
三番目に来たのは狸です。
狸は「愉快な馬車屋」という曲を一緒に演奏しようとゴーシュに言い、彼はその申し出を受け入れます。これは、猫のときと比べると大きな変化です。
狸は小太鼓を演奏し、二人はセッションをします。
ゴーシュはここでリズム感を鍛え、チェロの調子も整えます。
・野ねずみ
最後にやってきたのは野ねずみの親子です。
お母さんねずみは、子ねずみの病気を治して欲しいと頼みに来ます。
ゴーシュはそのわけを聞き納得すると、子ねずみのためにチェロを弾きます。
ここではゴーシュが、自分ではなく他人のために演奏するようになることを表しています。
・小動物との交流によるゴーシュの変化
このようにみると、小動物たちとの交流によって、ゴーシュが少しずつ変化していることが分かります。
今一度小動物たちとの交流をまとめると、
- 猫=ゴーシュの実力を表す
- かっこう=音感を鍛える
- 狸=リズム感を鍛える
- 野ねずみ=人のために演奏する(マインドを鍛える)
となるでしょう。
こうした動物たちとの交流を経て、ゴーシュは見違えるほど演奏が上達します。
最後のアンコールの場面では、猫に弾いた「印度の虎狩」をやけくそになって弾きますが、聴衆は耳を澄ませて聴き、楽長や仲間たちもゴーシュの演奏を褒めるほどです。
これは、猫に弾いた「印度の虎狩」がひどかったことと対比的であり、動物たちと会う前のゴーシュと、動物たちに会った後のゴーシュの演奏の違いを強調するための伏線になっています。
以上、『セロ弾きのゴーシュ』における動物たちとの交流の意味をみることで、ゴーシュの変化を読み取りました。
次は『セロ弾きのゴーシュ』という物語がハッピーエンドかどうかについて見ていきます。
・『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドか?
ここでは、
- 『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドか?
ということについて考察していきます。
結論から言うと、この物語はハッピーエンドではないと考えられます。以下でそれを説明していきます。
『セロ弾きのゴーシュ』で特徴的なのが、ゴーシュが水を飲む場面です。
彼は家に帰るといつも水を飲んでおり、作中にはその場面が4回も出てきます。
つまり、ゴーシュは水を求めている人物として描かれているのです。
水は人間にとって必要なものですので、ゴーシュのこうした渇きは、彼の満たされない気持ちを表しているのではないかと考えられます。
彼は最後の演奏が終わった後も、家に帰って水をがぶがぶと飲みます。このことからは、演奏が成功したとしてもどこか満たされない彼の感情がうかがえます。
また彼の住む家は、町外れにある川べりの
- こわれた水車小屋
です。
壊れているために水が役目を果たさないこの建物は、満たされないゴーシュの姿と重なります。
ゴーシュが音楽的に成功しましたが、彼の行動や住む家などからは、彼が幸福であるようには描かれていないことが分かります。
そして実際、ラストの場面で彼は物憂げです。
このようなことから、『セロ弾きのゴーシュ』はハッピーエンドではないと言えるかもしれません。
次には個人的な感想を交えて、なぜ作品に寂寥感が満ちているのかをお話ししていきます。
-感想-
・意地悪なゴーシュと双子の弟
僕が『セロ弾きのゴーシュ』で印象に残っているのはゴーシュが猫の舌でマッチを擦る場面で、彼はここで意地悪すぎるくらい意地悪です。
ゴーシュは最後の場面でかっこうに向かって謝りますが、僕は猫にも謝った方がいいと思います。
ちなみに、僕はこの猫をゴーシュと関係のある女性だと思っています。
文中には「五六ぺん見た」とあるので、あるいはお金で買った女性かもしれません。
ともかくも、あの猫にだけはどうもゴーシュの当たりがきついようです。
それから、作中に出てくる「ホーシュ君」というのも誰だか気になります。
そのとき誰かうしろの扉をとんとんと叩くものがありました。
「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたように叫びました。
ゴーシュの友達でしょうか。それにしても名前が似ていますね。年の離れた弟か、あるいは双子かもしれません。
いずれにせよ夜中に戸を叩く間柄ですから、相当親しいことが分かります。
ただ、「ねぼけたように叫」ぶというのは少し引っかかります。
僕はこの場面を、来るはずのない相手の名前を寝ぼけて叫んでしまったのではないかと考えています。
これらのことをまとめて予想すると、ホーシュ君の正体は、
といったあたりになりそうです。
こう考えると、作中に漂う寂寞とした感じは、ホーシュ君を亡くしたゴーシュの寂寥感から来ていると説明することもできます。
またそうだとすれば、猫にキツくあたってしまうゴーシュの心境もまだ納得できるでしょう。
ゴーシュは動物たちの病気を治す代わりに、自らの傷も動物たちに癒やしてもらってるのかもしれません。
以上、『セロ弾きのゴーシュ』のあらすじと考察と感想でした。
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