宮沢賢治『風の又三郎』解説&考察!あらすじや方言の解釈まで!

『風の又三郎』とは?

『風の又三郎』は、高田三郎という不思議な子どもの物語。

強い方言と民話的な内容が特徴的な作品で、宮沢賢治の代表作の一つです。

ここではそんな『風の又三郎』の方言の標準語訳・あらすじ・解説・感想をまとめています。

『風の又三郎』のあらすじ

二学期の始め、谷川の岸にある小さな学校に、高田三郎という子どもが転校してきました。

彼は赤い髪の毛で、標準語を使う不思議な子どもです。

彼はクラスのみんなに、風の神の子ではないかと噂されます。

はじめこそ距離を置かれていた三郎ですが、次第にみんなと仲が良くなっていきました。

ぶどうを取りに行ったり、川へ泳ぎに行ったりして、みんなは三郎と遊びます。

けれども12日目に、三郎はまたお父さんと一緒に違う学校へ行ってしまいました。

クラスの友達は先生からそれを聞くと、「やっぱりあいつは風の又三郎だった」と言い合うのでした。

・『風の又三郎』の概要

主人公 高田三郎
物語の
仕掛け人
クラスの友達
主な舞台 学校とその近辺
時代背景 大正時代
作者 宮沢賢治

-解説(考察)-

・作中に出てくる方言の解説

『風の又三郎』には、方言がたくさん出てきます。

注釈の付いてる文庫本で読むならまだしも、青空文庫などで読むと理解しづらいかもしれません。

ここでは『風の又三郎』に出てくる方言と、その標準語訳をまとめました。

全部で14個あります。読むときの参考になれば幸いです。

・「なして泣いでら、うなかもたのが。」

訳:どうして泣いているんだ、お前が構ったのか(いじめたのか)。うな=お前。

・「わあ、われ悪くてでひと撲いだなあ。」

訳:わあ、自分が悪いのに人をなぐったな。

・「うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」

訳:お前たちが喧嘩したから又三郎がいなくなった。うなだ=お前たち。

・「ぶっかしたぞ。」

訳:ぶっ壊したぞ。

・「あそごのわき水まで来て待ぢでるべが。」

訳:あそこの湧き水まで来て待っているのかな。

・「又三郎うそこがないもな。」

訳:又三郎は嘘つかないよ。

・「又三郎吹がせでらべも。」

訳:又三郎が吹かせているんだよ。

・「うなだ遊ばばあの土手の中さはいってろ。」

訳:お前たち遊ぶのならあの土手の中に入っていろ。

・「おらこったなものはずせだぞ。」

訳:おら(一人称)こんなもの外せるぞ。

・「ははあ、塩をけろづのだな。」

訳:ははあ、塩をくれというのだな。

・「さあ、あべさ。」

訳:さあ、行こう。

・「おおむぞやな。」

訳:おおかわいそうに。

・「そのわろは金山掘りのわろだな。」

訳:その子は金山堀りの息子だな。わろ=男の子。

・「うんうん。牧夫来るどまだやがましがらな、したども、も少し待で。」

訳:うんうん。牧夫が来るとまたやかましいからな。そうだけれど、もう少し待て。

 

以上が作中の分かりにくい方言です。

ですが標準語訳を見れば分かるように、方言だからこそ作品の味が出ているように思います。

標準語で話す又三郎と、方言で話す村の子どもたちを両方描いているので、そのギャップを宮沢賢治はあえて利用していたのでしょう。

ちなみに賢治作品の『どんぐりと山猫』でも、主人公の一郎は標準語で話し、馬車別当は方言で話しています。

こうした、

  • 標準語⇔方言

の対比は、賢治作品を読む上で一つのポイントかもしれません。

注釈を参考にしながら、『風の又三郎』や『どんぐりと山猫』に出てくる方言も楽しんでみて下さい。

『どんぐりと山猫』の解説はこちら▽

宮沢賢治『どんぐりと山猫』のあらすじ&解釈!おかしな物語の感想と解説も!

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・高田三郎の役割

主人公の三郎は、ほかの子どもから

  • 風の神の子

ではないかと言われています。

実際、タイトルの「風の又三郎」というのは、風の神である「風の三郎」をもとにしています。

また、この作品の元となった宮沢賢治の『風野又三郎』という作品では、主人公は実際に風の神です。

そうした背景がありつつも、この『風の又三郎』では主人公は高田三郎という子どもであり、明らかに風の神であるという描写はありません。

このどっちか分からないという状況が、村の子どもたちに不思議な印象を与えています。

彼のように、人間のような人間でないような存在は、日本に昔からある民話のひとつである『座敷わらし』などにも見られる設定です。

不思議な体験をした子どもたちは、大人になったとき「高田三郎」のことを話すかもしれません。

なかには彼のことを「風の又三郎」だと言って話す人もいるでしょう。

このようにして、宮沢賢治は高田三郎という揺らぐ存在を通して、座敷わらしのような民話の芽を作りあげています。

言い換えれば、こうした民話性を構築するために、風の子か人間の子かどちらか分からない役割を三郎に与えていると考えられるのではないでしょうか。

-感想-

・危うい子どもたち

『風の又三郎』を読んで、

「子どもたちが危ないなあ」

と思うのは、僕が日常的に山で遊んだことのない人間だからでしょうか。

彼らは二度も危機的な状況に陥っています。

ひとつは、馬が逃げて霧が深くなった場面。地元のおじいさんも一歩間違えれば命はなかったと言っています。

「あぶないがった。あぶないがった。向こうさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。」

もうひとつは、川で遊んでいる途中にスコールが降った場面。これはよくニュースで見るやつですよね。カンパネルラなんかも川で死んだのですから。

高田三郎が村にいたのは11日だけですが、2度も危うい状況になっています。なかなかの高頻度です。

おっかなくなって北海道に帰ったのかな?なんて考えも起こりますね(ないでしょうが)。

しかしこうしてみると、『風の又三郎』は自然と遊ぶ村の子どもたちの生活に、都会人である高田三郎が飛び込んで、結局は馴染めなかった物語のようにも思えます。

実際、彼は外ではなく家で遊びたがっているし、山ぶどうではなく栗を取るし、彼らの泳ぎ方(ばた足)を笑うしで、村の子との違いを強調して描かれています。

作中で高田三郎はマイノリティですが、現代では彼のようなタイプが多数派ですね。高田三郎は未来人だったのかもしれません。

どっちが良いのかは分からないです。しかし、『風の又三郎』に出てくる子どもたちや、小さい頃はよく川で遊んだという大人たちの話を聞くと、僕は妄想のノスタルジーとでも言うのか、不思議な憧憬に駆られます。

この作品は危なっかしい場面もありますが、自然と生きる大切な人間の姿を描いているようにも思います。

以上、『風の又三郎』のあらすじと考察と感想でした。

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