『光と風と夢』とは?
『光と風と夢』は、中島敦の芥川賞候補作。
物語は英作家・スティーヴンソンが晩年を過ごしたサモア諸島での日記と、語り手の傍白を交互に進んでいきます。
実在した人物の出来事を取り上げているので、伝記的な小説だと言えるでしょう。
ここではそんな『光と風と夢』のあらすじ・考察・感想までをみていきます。
-あらすじ-
主人公・スティーヴンソンは、持病の療養のために、南国のサモア諸島で暮らしをはじめます。
サモアは白人の植民地でしたが、スティーヴンソンは先住民に好意的に接します。
本業の執筆活動の傍ら、先の短い命ですが、島の政治や村の問題解決などに尽力します。
彼はツシタラ(語り部)と呼ばれ、先住民に愛されるようになっていきます。
ときおり故郷の友達や懐かしい風景を思いますが、サモアでの生活に不満はありません。
そうして、ついに覚悟していた死がやってきます。
彼の骨はサモアの山頂に埋められ、島民と友人たちが、彼の作った祈祷を唱えて葬送します。
最後は老酋長の哀傷を含んだ言葉で幕が閉じます。
「トファ(眠れ)!ツシタラ。」
・『光と風と夢』の概要
主人公 | ロバート・ルイス・スティーヴンソン |
物語の 仕掛け人 |
サモアの先住民 |
主な舞台 | サモア諸島 |
時代背景 | 1890年代 |
作者 | 中島敦 |
-解説(考察)-
実在した主人公・スティーヴンソン
『光と風と夢』の主人公・スティーヴンソンは実在した人物です。
スコットランドに生まれ、青年期はアメリカで過ごし、晩年はサモアで迎えます。
幼少の頃から病弱だった彼は、一日中物語りを想像して遊んでいたような子どもだったそうです。
そんな彼は成長するにつれて、物語作家としての自覚を強めていきます。
『光と風と夢』は、そんな彼のサモアでの書簡集を元に書かれています。
1890年代の当時は、まだ差別や不平等などがはびこっていた時代です。
そんななか、彼は思いやりと愛情を持って先住民に接しています。
作品からは、主人公の人道的な意識が全面に溢れています。
『光と風と夢』は、スティーヴンソンというイギリスのジェントルマンを通して、植民地や西洋文明主義の批判が読み取れる作品です。
・『光と風と夢』のテーマ
この作品が描いているテーマは、
- 語り部の死(物語の消失)
です。
物語は古来から、口頭で伝えられてきました。
語り部とは、そうした物語を語り、聴衆を楽しませる存在です。
それが、近代の産業革命で紙が普及し、物語は語るものから書くものへと変化します。
しかしサモアではそうした語り部の存在がまだありました。
そうしたなか、スティーヴンソンは先住民にツシタラ(語り部)と呼ばれて親しまれます。
そんな彼は、昨今の「筋のない小説」を受け入れることができません。少し長いですが引用します。
「筋の無い小説」という不思議なものに就いて考えて見たが、よく解らぬ。(中略)私一個にとっては、作品の「筋」乃至「話」は、脊椎動物に於ける脊椎の如きものとしか思われない。「小説中に於ける事件」への蔑視ということは、子供が無理に成人っぽく見られようとする時に示す一つの擬態ではないのか?
ようするに、物語はストーリーの面白さが重要でしょ!ということを言っています。
これは、スティーヴンソンという作家が、分かりやすい物語を面白い形で提供する、根っからの大衆小説家だったことに関係しています。
しかし時代は、個人の内面的な問題を主題にする私小説や、意識の流れを重視する物語のない小説へと向かっていきます。
このようなことから、稀代のストーリーテラーだったスティーヴンソンの死を描くことで、
- 語り部や物語の死
を比喩として描いているのではないかと考えられます。
したがって『光と風と夢』のテーマは、「語り部の死(物語の消失)」といえるでしょう。
・中島敦とスティーヴンソンの共通点
中島敦が『光と風と夢』でスティーヴンソンの伝記小説を試みたのは、やはり彼がスティーヴンソンという作家の思想や人間性に共感するところがあったからでしょう。
作中でスティーヴンソンは、小説論について次のようなことを述べています。
真実性と興味性とを共に完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。
中島敦作品の特徴は、
- 近代人の自意識
- 読者を驚かせる事件
などにあると考られます。
ですので、このスティーヴンソンの小説論も、中島敦の思うところに近いものがあったのかもしれません。
また、二人の身体的特徴にも共通点が見られます。
中島敦自身も病弱な身体を持つ青年であり、若い頃から喘息に悩まされていました。
最後にはその喘息が悪化し、33歳という短い生でこの世を去ります。
スティーヴンソンも若くして結核を患い、44歳という若さで亡くなります。
このように、病弱な身体や持病とともに執筆活動を行うという点で、スティーヴンソンと同じ境遇であるといえます。
さらに、中島敦は仕事でパラオという南洋の地へ赴任していたことがあります。
これはスティーヴンソンが療養のため、サモアという南洋の地へ赴いたことにも似ています。
- 小説論
- 病弱体質
- 南洋での経験
こうしてみると、ふたりの共通点が多いことが分かります。
中島敦がスティーヴンソンに共感を抱いていても、決して不思議ではないでしょう。
そうした意味では、中島敦自身が投影されている物語だと読むこともできるかもしれません。
-感想-
・中島敦作品の多様性
『山月記』などの漢文調で有名な中島敦ですが、この作品は翻訳調で柔らかい文体です。
『光と風と夢』も古潭四篇と同じく初期に書かれた作品ですが、全然違った印象を受けます。
南洋の様子は決して華美に描かれることはなく、ほどよいリアリズムと冒険のにおいがする読み物です。
リアリズムの、ロマンティシズムのと、所詮は、技巧上の問題としか思えぬ。読者を引入れる・引入れ方の相違だ。読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム。
作中でスティーヴンソンが語る小説論には、中島敦の思いが重なっているようにもみえます。
また、この作品の面白い点は、
だと思います。
主人公のスティーヴンソンは、土人にツシタラ(語り部)と呼ばれる存在です。
しかし物語の中のスティーヴンソンは、サモアでの日常を日記でしたためる「書き手」の役割を担っています。
一方で、物語自体の「語り手」は別にいて、物語に脚注を加えている存在です。
ですがその語り手もまた、「中島敦という書き手」に作られた存在です。
こうした「語り手」と「書き手」の入れ子構造を用いることで、語ることと書くことを同居させています。
ストーリーテラーであると同時に、物語作家であるという彼の性質をうまく表しているように思います。
『山月記』のような古潭にはない雰囲気や構成で、中島敦という小説家の多様性がみえる作品です。
以上、『光と風と夢』のあらすじと考察と感想でした。
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