金原ひとみ作品の魅力
20歳で芥川賞を受賞し、一躍脚光を浴びた金原ひとみさん。
しかし、『蛇にピアス』しか読んでいない人は、金原文学の魅力を十分に味わえていないと断言できます。
『蛇にピアス』は初期恋愛作品群のひとつであり、8作目の『TRIP TRAP』から萌芽が見え始める母親・フランス期、13作目『クラウドガール』で描かれた「母」からの脱却と「女」の回帰など、彼女の作品は常に変化し、質も高まり続けています。
ここでは、そんな金原さんの19作品全てを読んだ僕が、金原作品の魅力や特徴をお伝えします。
金原ひとみの代表作
『蛇にピアス』『マザーズ』『クラウドガール』『ミーツ・ザ・ワールド』
金原作品の特徴
先ほども少し触れましたが、僕は金原作品に大きく3つの段階があると考えています。
- 初期恋愛作品群(2004年〜2009年)
- 母&フランス期(2009年〜2016年)
- 「女」の回帰(2016年〜現在)
この3つです。
それぞれの特徴や、代表的な作品を詳しくみていきます。
刊行年 | タイトル | 内容 |
初期恋愛作品群(2004年〜2009年) | ||
2004年 | 『蛇にピアス』 | 1人の女性を2人の男性が奪い合う話 |
2004年 | 『アッシュベイビー』 | 特殊性癖を持つ男女3人が織りなす満たされない性の話 |
2005年 | 『AMEBIC アミービック』 | 拒食症で不倫中の女性ライターが精神分裂する話 |
2006年 | 『オートフィクション』 | 過去4人の男性との恋愛を描いたオートフィクション |
2007年 | 『ハイドラ』 | 拒食症の女性が2人の男性の間で揺れる話 |
2007年 | 『星へ落ちる』 | バイセクシャルを含む三角関係 |
2009年 | 『憂鬱たち』 | 二人の男の間で生きる「私」の短編集 |
母&フランス期(2009年〜2016年) | ||
2009年 | 『TRIP TRAP』 | 6ヶ所への旅を通して主人公の半生が描かれる話 |
2011年 | 『マザーズ』 | 乳幼児を持つ三人の母親の心理に迫る群像劇 |
2012年 | 『マリアージュ・マリアージュ』 | どこかに問題がある男女の恋愛を描いた6篇の短編集 |
2015年 | 『持たざる者』 | 3.11を背景に4つの家庭を紡いだ群像劇 |
「女」の回帰(2016年〜現在) | ||
2016年 | 『軽薄』 | 甥と関係を持ってしまう女性の話 |
2017年 | 『クラウドガール』 | 母を亡くした姉妹の話 |
2019年 | 『アタラクシア』 | 不倫や浮気が主軸の恋愛群像劇 |
2020年 | 『パリの砂漠、東京の蜃気楼』エッセイ | パリと東京のエッセイ |
2020年 | 『fishy』 | 3人の女性の群像劇 |
2021年 | 『アンソーシャル ディスタンス』 | 現代の恋愛を描く5つの短編集 |
2022年 | 『ミーツ・ザ・ワールド』 | 腐女子がギャルに出会って人生変わる話 |
1.初期恋愛作品群(2004年〜2009年)
芥川賞受賞から始まった初期作品群は、第一作である『蛇にピアス』のテーマを深化させ、さまざまな角度から乗り越えようとする試みが見られます。
現在に至るまで一貫している「恋愛の暴力性」や「分裂(乖離)」といった金原文学のテーマ、「オートフィクション」という特徴的な手法が確立されたのもこの時期です。
特徴1.「恋愛」
処女作である『蛇にピアス』から7作目の『憂鬱たち』までは、「三角関係の恋愛」が作品の中心的なテーマとなっている作品群です。
多くが「女1:男2」の3人で構成され、「2人の恋愛相手を行き来する主人公」という構図が用いられています。
ああどうして、世界は彼が浮気した瞬間に破滅するシステムになっていないのだろう。そうなっていれば、私は彼が浮気した世界などに生きなくてすむというのに。ああ死にたい死にたい彼が浮気をしている世界なんて破滅すればいい。
金原ひとみ『オートフィクション』
初期恋愛作品群(2004年〜2009年) | |||
刊行年 | タイトル | 恋愛の構図 | 内容 |
2004年 | 『蛇にピアス』 | 女1:男2 | 1人の女性を2人の男性が奪い合う話 |
2004年 | 『アッシュベイビー』 | 女1:男2 | 特殊性癖を持つ男女3人が織りなす満たされない性の話 |
2005年 | 『AMEBIC アミービック』 | 女1:男1 | 拒食症で不倫中の女性ライターが精神分裂する話 |
2006年 | 『オートフィクション』 | 女1:男1 | 過去4人の男性との恋愛を描いたオートフィクション |
2007年 | 『ハイドラ』 | 女1:男2 | 拒食症の女性が2人の男性の間で揺れる話 |
2007年 | 『星へ落ちる』 | 女1:男2 | バイセクシャルを含む三角関係 |
2009年 | 『憂鬱たち』 | 女1:男2 | 二人の男の間で生きる「私」の短編集 |
とくに、以下の4作は似た構成とテーマで描かれています。
- 『蛇にピアス』
- 『アッシュベイビー』
- 『ハイドラ』
- 『星へ落ちる』
なかでも『ハイドラ』は質・内容ともに『蛇にピアス』を進化させた作品と言え、芥川賞受賞時から格段に上がった金原さんの手腕を感じることができる佳作です。
第一作目からのテーマである「恋愛」は、中期以降も形を変えながら金原文学の軸として描かれ続けますが、恋愛と暴力が表裏一体となった瑞々しくも危険な雰囲気は、初期作品ならではの良さがあります。
特徴2.「分裂」
「分裂」も初期作品の特徴の一つです。
- 『AMEBIC アミービック』
- 『オートフィクション』
この2作はどちらかといえば哲学的な内容で、金原文学における「分裂」の概念や、「オートフィクション(作者の自伝のようなフィクション)」という小説手法を提示しています。
初期作品で描かれる「分裂」は、一つの身体に複数の精神を持つ合体ロボを思わせるもの。
全身を一つの自分と考えるのではなく、精神的な自分は脳に宿り、それ以外の肉体はそれぞれの意志を持っているイメージです。
▽超合体SFロボット 藤子・F・不二雄キャラクターズみたいな感じを想像すると分かりやすいかもしれません。
例えば、自分の意思に関係なく心臓は動き、毎月月経が来て、血が出る。
こうありたいと思う精神的な自分が、肉体的な自分の一部の現象に引っ張られ、精神的な自分の価値観に影響する。
初期作品の主人公たちは、こうした精神と各肉体の同一化に強く抵抗します。
分かりやすいのは2作目の『アッシュベイビー』で、主人公が自分の女性器と会話をする場面。
自身の女性器を擬人化することで、精神としての自分と肉体の一部の反応を明確に切り離していることが分かります。
・親の分裂としての自分
4作目の『オートフィクション』で描かれる「精子と卵子」の話は、分裂の考え方がよく分かります。
私は精子と卵子だった。いや違う。別に私だけではない。世界中に生きる全ての人が、精子と卵子だ。私は皆と同じで、皆と何も変わらなくて、それでも私は精子と卵子として、人より劣っているだけだ。
金原ひとみ『オートフィクション』集英社,p250
こうして考えている自分も、実際に親の分裂として生まれている。
考える自分という細胞が、すでに親の分裂であるという点に、分裂という考え方の基盤があるように思います。
- 一昔前のガンダム的哲学:肉体と精神は別だ
- 現代の主流であるエヴァンゲリオン的哲学:肉体と精神は同一だ
このふたつの折衷案を行くような、一つの肉体に別々の精神が宿る「分裂」的哲学が、金原作品の初期には見られます。
面白いのは、第1作目の『蛇にピアス』でも、「スプリットタン(舌ピアスの拡張を重ねて蛇のように二分する身体改造)」という比喩的な分裂が描かれ、すでにその萌芽を見せていること。
この分裂の概念は、中期以降「乖離」という表現にニュアンスを少しずつ変えていき、金原文学の主軸となるテーマを背負っていきます。
「乖離があった、と表現するといいと思いますよ」
「カイリか、なんか素敵な言葉だな」
「素敵な言葉です。人のぐちゃぐちゃを全てその言葉で回収してくれます」金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社
長女と笑い合って「かわいいなあ」と目を細める私は本当に愉快で幸せを感じていたけれど、この文章を書いている今の私は胃が空洞になったような物悲しさを体の中心に感じ涙を浮かべている。普通に日常を生きる自分と書く自分の乖離に身を委ねることは、それによって生き永らえているようでもあり、首を絞められているようでもある。
金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』集英社
2.母&フランス期(2009年〜2016年)
2007年に長女を出産した金原ひとみさん。
それと連動するかのように、2009年あたりの作品からは母親としての主人公が登場し始めます。
また、2011年に起こった東日本震災による原発事故をきっかけに、フランスへの移住を決めており、作品にも変化が現れます。
母&フランス期(2009年〜2016年) | ||
刊行年 | タイトル | 内容 |
2009年 | 『TRIP TRAP』 | 6ヶ所への旅を通して主人公の半生が描かれる話 |
2011年 | 『マザーズ』 | 乳幼児を持つ三人の母親の心理に迫る群像劇 |
2012年 | 『マリアージュ・マリアージュ』 | どこかに問題がある男女の恋愛を描いた6篇の短編集 |
2015年 | 『持たざる者』 | 3.11を背景に4つの家庭を紡いだ群像劇 |
特徴1.母親としてのアイデンティティ
初めて母親の視点が描かれるのは、8作目の『TRIP TRAP』(2009年)でのこと。
最後の「江ノ島」で母親としての主人公が登場するとともに、海などの自然も初めて描かれます。
これまでは、誰かの部屋やレストラン、車の中など限定的な空間ばかりで、自然や風景が描かれることはまずありませんでした。些細なことですが、作風の変化が感じられる点です。
文章も、キリッとした中に抜け感のある玄人らしさが滲みだしてきて、芥川賞受賞から5年、8作目にして新境地を開いた感がありました。
・母親期の代表作『マザーズ』
子供を産んで、私もあらゆることに関して恥を感じなくなったのは事実だった。恥ずかしいなどと言っていたら、赤子と共に引きこもりになるしかない。だから世の母親たちがどんどん周りを気にしなくなって、女ではないものになっていくのも、仕方のない事のように今は思える。自分はそうなりたくないと思うけれど、子供が生まれる前の自分と比べると、今の自分がどんどん自意識を捨ててどんどん強くなっているのが分かる。(中略)少なくともあらゆるものを捨て去って、女は母になる。
金原ひとみ『マザーズ』新潮社
9作目の『マザーズ』(2011年)は、母親の心理が克明に描かれる大作で、知らずに読むと『蛇にピアス』の作者だと分からない人がほとんどでしょう。
もちろん母親最高!的なことではなく、母になることの辛さや苦しみ、浮かび上がる問題やその狂気性までを正直に描くところに、金原ひとみさんの魅力があります。
特徴2.「3.11」とフランス
2011年の3.11で原発事故が起こり、娘への放射能汚染の影響を考えた金原ひとみさんは、翌日の3月12日に岡山へと避難します。
しばらく滞在していましたが、原発事故の収束が不透明だったため、岡山で次女を出産した後、そのままフランスへと移住します。
- 『持たざる者』(2015)
- 『軽薄』(2016)
この2作は、3.11が起こった時の危機意識や関東圏の人々の心理、移住先のフランスでの生活が色濃く現れている作品です。
・テーマの遷移 〜母から社会問題へ〜
これは本当に想像でしかありませんが、3.11とフランス移住がなければ、金谷ひとみさんはもう少し「母」というテーマを掘り下げていたと思います。
しかし3.11が起こりフランスに移住したために、「3.11・移住生活・異国での育児」という社会問題にもテーマが割り振られ、バランス的にパーソナルな「母」の部分は落ち着いていった印象です。
こうした母親としての姿や、フランス移住を描いた中期Ⅰの作品群を読めば、『蛇にピアス』しか読んでいない人の印象は必ず変わるでしょう。
それほどまでに変化があり、とはいえ初期の頃の魅力も全く損なわれていない「母&フランス期」を経て、わりと早めに訪れたのが中期Ⅱの「母」のフェードアウトです。
3.「女」の回帰(2016年〜現在)
2018年、フランスから帰国した金原ひとみさんは、2020年に起こったコロナパンデミックも盛り込みつつ、精力的に執筆をされています。
母としての自分と、女としての自分の間で揺れる女性たちを描いた『マザーズ』から6年。
そんな「母」の面影は、甥との関係を重ねる夫子持ちの女性を描いた『軽薄』(2016年)や、母を亡くした姉妹の物語『クラウドガール』(2017年)という象徴的な作品を皮切りに薄れていきます。
「女」の回帰(2017年〜現在) | ||
刊行年 | タイトル | 内容 |
2016年 | 『軽薄』 | 甥と関係を持ってしまう女性の話 |
2017年 | 『クラウドガール』 | 母を亡くした姉妹の話 |
2019年 | 『アタラクシア』 | 不倫や浮気が主軸の恋愛群像劇 |
2020年 | 『パリの砂漠、東京の蜃気楼』エッセイ | パリと東京のエッセイ |
2020年 | 『fishy』 | 3人の女性の群像劇 |
2021年 | 『アンソーシャル ディスタンス』 | 現代の恋愛を描く5つの短編集 |
2022年 | 『ミーツ・ザ・ワールド』 | 腐女子がギャルに出会って人生変わる話 |
特徴1.「女」の回帰と加齢
『クラウドガール』(2017年)では、母親を亡くした若い姉妹を主人公に置くことで、「母」の部分を作中に介在させないことに成功しています。
その後の作品にも子を持つ母親が登場することもはありますが、主として「女性としての私」であり、「女性」の部分を「母」の部分が超えることはありません。
ここで新しい問題として浮上してくるのが、主人公の加齢です。
たとえば『fishy』では、夫を寝取った若い女性と会うために、40万円かけてヒアルロン酸を注入するアラフォー女性が描かれます。
また、『アンソーシャルディスタンス』の短編「デバッガー」では、35歳の主人公が11歳年下の男と付き合ったことで、明るい場所で肌を見られたくない心理からプチ美容整形を重ねる姿が印象的です。
- 化粧品や美容整形への欲求
- 年下との恋愛
- 不倫・浮気
このようなアラフォー女性ならではの欲望が、中期の金原作品の特徴となっています。
・これまでと一線を画す作品『ミーツ・ザ・ワールド』
ギャルと腐女子が出会って人生が変わるという内容の『ミーツ・ザ・ワールド』(2022)は、金原文学に新しい流れを予感させます。
これまでは恋愛至上主義と言ってもいいほど、恋愛に重きを置いていた作品ばかりでした。
そこへ突然、恋愛経験のないヲタ活ひとすじの女性主人公の話を放り込んできたのです。
恋愛だったり友達関係だったり、読書だったりスポーツだったり音楽だったり、買い物やホスト、ギャンブルやお酒、あらゆるものが誰かの救いとして機能しているのだろう。だったら別に、恋愛じゃなくてもいいのかもしれない。
金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社
特筆すべきは人物造形の巧さで、宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』とは違った魅力的な腐女子像を、見事に描き切っています。
さらに面白いのは、「オタク女子の覇権とギャルの敗北」が象徴的に描かれている点。
どちらかといえばギャル側に立ち続けた金原さんが描くオタク女子の勝利に、時代の流れと女性タイプの変化を感じます。
・ギャルとオタク両方の素質を持つ主人公たち
派手な見た目や水商売、ハイブランドで身を固めたり、一夜の恋を楽しんだりと、金原作品に登場する多くの主人公がギャル、またはギャル力が高めです。
しかし、主人公の多くが部屋に引きこもるタイプでもあり、地は暗く内向的であることも分かります。
ちまちまとゲームをしている姿は『AMEBIC』(2005年)でも描かれており、金原さん自身もポケモンGOやクラッシュ・ロワイヤルをしていることが、エッセイ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』で書かれています。
認識のグラデーション、とか、氣について、とか、ポストヒューマニズムについて、などの話をし、掃除の大切さを説いたり何か心身の不調を漏らせば水を浴びろと勧めたりする、この家に於ける唯一の雑音的存在である男性がいなくなった家では箍が外れたように、次女がYouTubeのTWICEの動画をテレビで流し、長女がYouTubeをチラ見しながらスマホでゲームをやり、私はパソコンで「孤高のグルメ」を流しながらクラッシュ・ロワイヤルとポケモンGOを繰り返すという知性の欠片もない夕食後のひと時が流れた。
金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』集英社
そんな金原さんが、ついに自らの中にあった腐女子性とギャル性を出合わせて、まさにミーツザワールドを果たした『ミーツ・ザ・ワールド』。
これまでとは一線を画した小説になっており、控えめに言っても最高の一冊です。
『ミーツ・ザ・ワールド』を機に新しい道が開ける可能性もありますが、とりあえず2022年の時点では、「母」からのフェードアウトと「女」の回帰の一部としてまとめておきます。
以上、金原ひとみ作品の魅力について見てきました。
- 初期恋愛作品群(2004年〜2009年)
- 母&フランス期(2009年〜2016年)
- 「女」の回帰(2016年〜現在)
恋愛→母親→女性への回帰という変遷を経ながら、金原文学はどんどん深みを増していっています。
『蛇にピアス』だけでは、金原文学の一面しか見ることができません。
ぜひほかの作品も手に取って、新しい金原ひとみさんの文学に触れてみてください。必ず違った世界を見せてくれます。