中島敦

小説『山月記』あらすじから解説まで|李徴には無くて袁傪にはあるものって?

2019年2月23日

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔としなかった。

中島敦(1994)『山月記・李陵 他九篇』,p112,岩波書店.

『山月記』とは?


李徴(虎)
李徴(虎)
『山月記』は中島敦処女作である。高校の教科書でもよく取り上げられているようだ。

己が虎になるという設定が衝撃的で覚えている者も多いのではないだろうか。

ここではそんな『山月記』のあらすじや解説を、私たちと一緒にみていこうではないか。
袁傪
袁傪

-あらすじ-

主人公は博学才穎の李徴

彼は若くして官を辞して詩家を志します。しかし文名は容易に上がらずただ時だけが過ぎ、一年後遂に発狂し行方不明となります。

翌年、袁傪が陽の昇らないうちに商於の路を通ろうとしたとき、1匹の虎が彼を襲おうと躍り出ました。

しかし、どうしたことか虎は元の叢に隠れ、「危ないところだった」と繰り返しています。

その声に聞き覚えのあった袁傪は、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と尋ねました。

声は「いかにも」と答えます。なんと李徴は虎になっていたのです。

袁傪と虎の李徴は思わぬ再会を果たし、話は李徴が虎になった経緯へと移ります。

それから李徴は自分の詩のこと、今の気持ち、妻子のことなどを袁傪に全て話し、それを彼に託します。

夜が明けて、二人の友は別れの時を迎えます。李徴は言います。「前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい」。

袁傪一行が丘に上って振り返ると、虎が路に躍り出ます。そして三度月に咆哮したかと思うと、また元の草むらへと消えていったのです。

『山月記』-概要

主人公 李徴
物語の仕掛け人 袁傪
主な舞台 商於近辺の林中
時代背景 中国・唐代
作者 中島敦
李徴(虎)
李徴(虎)
商於というのはだいたい今の中国にある商洛市辺りになる。

商洛市は赤く囲ってあるところだ。

概要を知ったところで、次は作品の考察を見ていこう。
袁傪
袁傪

『山月記』-解説(考察)

袁傪というキーパーソン

『山月記』は複雑な内面性を持つキャラクターの李徴がよく注目されますが、実はこの物語で重要な役割を担ってるのは李徴の友・袁傪であるように感じます。
小助
ふむ、私か。
袁傪
袁傪
この物語は李徴の内面が描かれながら進行しますが、それは独白ではなく、友・袁傪に向かって語られるという形式をとっています。

そのため、物語の進行には聞き手、つまり袁傪という人物が必要不可欠となりますね。

小助
そうかもしれないな。とにかく昔から李徴とはよく語り合ったものだ。
袁傪
袁傪
では、袁傪はどのように李徴の話を聞いていたのでしょうか。ちょっと再現してくれませんか?
小助
少し恥ずかしいのだが。
袁傪
袁傪
袁傪の部分は原文でいいですよ。
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
私は要点のみを言おう。
(李徴が乗り気だ。。。)
袁傪
袁傪

ふきだし

再会した李徴と袁傪の会話。(袁傪は要点のみ抜粋)

※袁傪の部分は原文です。

李徴(虎)
李徴(虎)
虎になった原因は分からない。
(息をのんで叢中の声の語る不思議に聞入っていた)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
だが、虎になってまで後生に残したかった詩を書き留めてくれぬか?
(部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとらせた)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
(詩を朗じる。約三十篇)
(作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か[非常に微妙な点に於て]欠けるところがあるのではないか)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
恥ずかしいことだが、今でも俺の詩集が様々な人の机に置かれているのを夢見ることがある。虎になって見る夢にだよ。笑うだろう?
(昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
お笑いついでに今の気持ちを即席で詩にしたので聞かせよう。なんとかかんとかなんとか・・・・
(袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
先は虎になった理由が分からないと言ったが、分かる気もする。おそらく己の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせいだ。もっと真剣に取り組めば良かった。だが、それも今さら気づいても遅いことだ。

(夜明けを告げる角笛がどこからか響いてくる。)

李徴(虎)
李徴(虎)
別れの時が来たようだ。最後に一つ頼まれてくれぬか。妻子のことだ。
(涙をべ、んで李徴の意にいたい旨を答えた)
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
ふっ、本当は詩などよりもこのことを先に頼むべきだったのだ。これだから虎などに身を堕としたのだな。
李徴(虎)
李徴(虎)
この路は二度と通らないでほしい。君と認めず襲いかかってしまうやもしれぬ。

それから、丘の上まで登ったらこちらを向いてくれ。二度と私に会おうという気持ちを起こさせないためにこの姿を見せよう。

(叢に向って、ろに別れの言葉を述べた。)
袁傪
袁傪

(袁傪が丘に上り振り返ると叢から虎が躍り出た。そして三度咆哮し、また叢の中へと消えていった。おわり。)

終わりですね、ありがとうございます。こうしてみると袁傪が全然しゃべっていないですね。
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
私ばかり話しているな。
そうかな。昔からこんなものだよ。
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
これにはおそらくこうした理由がある。袁傪の言葉をほとんどなくすことによって、私の内面がよりくっきりと描き出される形になっているのだ。
なるほど!そうかもしれませんね。それにしても袁傪はとても聞き上手ですね。見習いたいところです。
小助

李徴と袁傪 ~『山月記』における対比構造~

李徴(虎)
李徴(虎)
実は、この作品に対比表現が多く隠れているのは知っているか?
対比表現ですか?
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
そうだ。夢と現実遁世と処世欲望と理性表現者と鑑賞者獣と人間。ざっとあげてもこれだけの対比がある。そしてこれはもちろん、私と袁傪という人物の対比に集約されているのだ。
たしかに!李徴の遁世に対して袁傪は処世、夢想的な李徴に対して現実的な袁傪、表現者である李徴に対して鑑賞者である袁傪。見事にきれいな対比になっていますね。
小助
李徴が話して私が聞くというのも対ではあるな。
袁傪
袁傪
性格も李徴は峻峭であるのに対して袁傪は温和ですね。
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
そうだろう。つまりこの二人、私と袁傪を対比させることによって、物語により深みが増すような仕掛けになっているのだ。
物語の深みですか。
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
たとえば、順当に出世している袁傪を見れば、虎にまで身を堕とした私はより哀れに見えるだろう。また、多くの部下を連れている袁傪を見れば、私の孤独や侘しさがより際立つだろう。
なるほど!対比表現によって、袁傪の存在が李徴のキャラクターを引き出しているということですね。
小助
李徴(虎)
李徴(虎)
そういうことだ。
私はただの引き立て役か、、、
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
そうなるな。だが、ただの引き立て役ではない。名引き立て役だ。
名引き立て役。もう少しいい感じの言い方はないのか。
袁傪
袁傪
李徴(虎)
李徴(虎)
いいじゃないか。お前がいるから物語は面白くなるんだ。キーパーソンなんだぞ。
なんだかなあ。
袁傪
袁傪

『山月記』に出てくる漢詩はどういう意味?

物語の途中に李徴の詩が出てきますね。白文の漢詩なのですらすらとは読めなかったです、、、
小助

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷

李徴(虎)
李徴(虎)
たしかに日常的に触れるものではないからな。もし意味を知りたかったら以下の書き下し文口語訳を参考にするといい。
ありがとうございます!
小助

『山月記』 漢詩~書き下し文~

偶(たまたま)狂疾に因って殊類と成り
災患相仍(さいかんあいかか)りて逃るべからず
今日の爪牙(そうが)誰か敢(あえ)て敵せん
当時の声跡共に相高し
我は異物と為り蓬茅(ほうぼう)の下にあり
君は已に軺(よう※馬車)に乗りて気勢豪なり
此の夕べ渓山(けいざん) 明月に対して
長嘯(ちょうしょう)を成さず但(た)だ嘷(こう)を成す

『山月記』漢詩~口語訳~

たまたま狂気のために異類となり、
さまざまの災難も重なり逃れることができない。
今や私の爪や牙に歯向かうものはいないが、
あのころの私は君とともに名声に包まれていた。
だが私はいま虎となって雑草の中にひそみ、
君は馬車に乗ってますます勢いがある。
今宵この山あいで明月を仰ぐも、
私は吟ずることができずただ吠えることしかできない。

形式は七言律詩。押韻は偶数句の脚韻で逃・高・豪・嘷だな。
袁傪
袁傪
ありがとうございます!虎という身に落ちてしまった李徴の嘆きを表現しているのですね。
小助
そんなところだ。
袁傪
袁傪

『山月記』-感想

虫にならなかった李徴

『山月記』は人間が虎になってしまう、いわゆる変身譚です。

変身譚は昔からあるジャンルで、世界中に色んなお話があります。近代で有名なのはカフカの『変身』ですね。

『変身』は、主人公がある日突然虫になっていた物語です。作者はフランツ・カフカという人ですが、生きているうちは作品が世に認められませんでした。

しかし、中島敦はカフカがまだ世に知られていないころから彼の作品を英訳で読んでいたことが分かっています。

それだけでなく、カフカの作品に感銘を受けた中島敦は日本でも最初期にカフカの作品を翻訳しています※1。それほどまでに何か通ずるものがあったのでしょう。

さて、カフカは主人公をに変身させましたが、中島敦は主人公をに変身させました。

僕はここに彼らの精神の片鱗をみてとることができるような気がします。

カフカは実際にサラリーマン生活をしていましたが、文学に割く時間がもっと欲しいと常に嘆いていました。会社に行かずずっと家に居たい。そういう思いが主人公を家から出ない虫にしたのかもしれません。

中島敦はエリートの道を進みつつ芸術も志しながら青年時代を送りました。

そうした中で、李徴と同じような複雑な内面性が育まれたとしても想像することは難しくないでしょう。ただ、それを「虎」という猛獣にしたところに中島敦の自尊心がにじみ出ているような気はします。

主人公を通して作者へと思いを馳せることも文学の楽しみ方の一つであることを改めて実感させてくれる作品です。

以上、『山月記』のあらすじと考察と感想でした。

この記事で紹介した本