『歌行燈』とは?
『歌行燈』は、勘当された主人公の恩地喜多八と、その叔父である恩地源三郎の再会を、お三重という芸者が繋ぐ物語です。
「能楽」が物語の主軸に据えられており、少し取っつきにくい作品でもあるでしょう。
ここではそんな『歌行燈』のあらすじ・解説・感想をまとめています。
『歌行燈』のあらすじ
十一月十日の夜、三重県の桑名に二人のご老体が辿り着く。
後々分かることだが、彼らは能楽でその名を知られた恩地源三郎と、鼓の名人・辺見秀乃進であった。
そんな二人が湊屋という旅小屋へ向かうのを、一人の若い男が見ていた。
彼は立ち寄った饂飩屋で、こんな身の上話をする。
「私はかつて按摩師をひとり殺した。
伊勢の山田の古市にいた、宗山という按摩師だ。
私が叔父と旅行をしている間、彼が凄腕の唄い手だということを聞いた。
それだけなら良かったが、宗山は本家本元のような顔をして、私らの流派を馬鹿にしていたのだ。
若かった私は彼を懲らしめようとして、彼に本物の唄いを見せつけた。
プライドが高く高慢だった宗山は、恥辱を与えられて憤死したのだ。
その一件が叔父の耳にも入り、私はすぐさま勘当だってわけよ」
彼は「能楽界の新星、雲隠れに」と惜しまれた恩地喜多八、かの恩地源三郎の養子である。
喜多八は勘当された後、旅芸人として諸国を渡り歩いていたのだった。
一方で、二人のご老体がいる湊屋では、気詰まりな空気が流れている。
お三重という芸者が二人の相手をしていたのだが、謡いもできず踊りもできず、果てはお酌さえできない。
困った二人だったが、舞の真似事なら出来るというので、それをやって見せてくれと明るく振る舞う。
しかし、二人のご老体は驚いた、なぜならそれは、恩地喜多八の面影がある舞だったからだ。
それもそのはず、お三重は喜多八が七日で教え込んだことのある女だったのだ。
さらに、お三重は本名をお袖といって、あの宗山の娘でもある。
あまりの舞に、恩地源三郎と辺見秀乃進は、謡を合わせて鼓を鳴らした。
そこへ引き寄せられるように、饂飩屋から出た喜多八が門の下まで行き、さらに謡を合わせる。
この偶然の即興を耳にして、行燈の灯る湊屋の表道には、ちらちらと人だかりが出来ていた。
・『歌行燈』の概要
主人公 | 恩地喜多八 |
物語の 仕掛け人 |
お三重 |
主な舞台 | 桑名 |
時代背景 | 明治時代 |
作者 | 泉鏡花 |
-解説(考察)-
・登場人物の整理
『歌行燈』は、「喜多八」と呼ばれる人物が二人出てくるなど、登場人物の名前がややこしい作品です。
ここでは登場人物を整理することで、物語でどのような人物がどのような関係にあるのかを整理していきます。
・恩地源三郎(喜多八)
恩地源三郎は、物語の最初に出てくる陽気なおじいさんです。
『東海道中膝栗毛』の本を持ち歩いており、物語になぞらえて自分を「喜多さん」と言いおどけています。
後ほど出てくる養子の「恩地喜多八」と同じ「喜多八」なので、『歌行燈』の登場人物がこんがらがる一番の原因です。
当流第一の能役者で、侯爵に見世物をして帰る途中に、桑名の湊屋に寄ったのでした。
・辺見秀乃進(捻平・雪叟)
冒頭で「捻平」と呼ばれているのが、辺見秀乃進という七十八歳のおじいさんです。
辺見は小鼓の名人で、恩地源三郎と一緒に勤めを果たして帰る途中でした。
今では引退して孫に代を譲り、雪叟という名で隠居しています。
彼が鼓を風呂敷から取り出す場面は、芸事の気品と気高さを感じさせる名場面です。
・恩地喜多八(門附)
恩地喜多八は、饂飩屋で酒を呑んでいる元能楽者です。
序盤では名が明かされず、門附(旅芸人)の姿なので、「門附」と呼ばれています。
恩地源三郎の養子で、能楽の鶴と呼ばれたほど良い声を持つ人物ですが、宗山という素人を懲らしめたために勘当されています。
その後、お三重という芸者に舞を教えます。
・お三重(お袖)
お三重は、恩地喜多八に舞を教わった女芸者です。
元は宗山の娘で、名はお袖といいますが、父親が死んだことで母親に売られてしまいます。
辛い芸者時代を3年ほど送りましたが、何の因果か恩地喜多八の叔父、源三郎の座敷に呼ばれて舞を見せます。
・惣一(宗山)
宗山は、按摩師で謡いの上手い高慢な人物です。
妾を三人も持っていたり、高慢な態度でいるのを知った恩地喜多八に懲らしめられます。
恩地喜多八に恥をかかされた宗山は、その日のうちに憤死してしまいます。
以上の五人が物語の主要な登場人物です。
次は『歌行燈』で描かれる三つの物語軸を見ていくことで、物語の理解を深めていきます。
・三つの物語軸
『歌行燈』は、三つの物語軸がある小説です。
- 恩地源三郎と辺見秀乃進の二人旅
- 饂飩屋に立ち寄る恩地喜多八
- 桑名の芸者お三重の人生
ここではこれらの物語を整理していくことで、物語を理解しやすくしていきます。
まず、物語は恩地源三郎と辺見秀乃進の二人が、三重県桑名の駅に降り立つところから始まります。
後に明かされることですが、この二人は能楽の「謡い手」と「囃子手」の名人です。
二人は湊屋という旅籠屋に泊まり、そこでお三重という芸者と出会います。
もう一つの物語軸は、湊屋の近くにある饂飩屋に来ている恩地喜多八の物語です。
彼は若気の至りで、宗山という按摩の謡い手を懲らしめたため、親元からは勘当されて、諸国を流浪する旅芸人となっています。
三つ目の物語軸では、芸者であるお三重という女性の人生が描かれます。
彼女は宗山の娘ですが、父が死んだことで身を売られ、芸者として生きています。
謡いも踊りも出来ない彼女ですが、偶然再会した恩地喜多八に舞を教えてもらいます。
以上、三つの物語軸がラストシーンで重なります。
湊屋でお三重が舞い、それを見た恩地源三郎と辺見秀乃進は、恩地喜多八の面影をそこに見るのです。
そして源三郎は謡い、辺見(雪叟)は鼓をならし、それを聞きつけて饂飩屋から喜多八が出てきます。
それから湊屋の門の下にて喜多八が謡を合わせる場面で、物語は幕を閉じるのです。
このような三つの物語軸を押さえることで、物語の筋はぐっと理解しやすくなるでしょう。
・各章の整理
『歌行燈』は全二十三章あります。
それぞれの物語軸は断片的に語られるため、場面が行ったり来たりします。
ここでは、それぞれの章で何が書かれてあるかを簡単にまとめてみました。
『歌行燈』は湊屋と饂飩屋の場面で分けることもできるので、饂飩屋での場面を赤色で示しています。
- 一.源三郎と秀乃進が桑名到着
- 二.源三郎と秀乃進が湊屋へ行く
- 三.喜多八(門附芸人)が饂飩屋に到着
- 四.喜多八が饂飩屋で語らう
- 五.喜多八が饂飩屋で按摩を恐れる
- 六.源三郎と秀乃進が湊屋到着
- 七.源三郎と秀乃進が湊屋で食事
- 八.源三郎と秀乃進が湊屋で芸者を呼ぶ
- 九.喜多八が饂飩屋で通りかかる芸者を怖がる
- 十.喜多八が饂飩屋で按摩を呼ぶ
- 十一.喜多八が按摩殺しを告白
- 十二.喜多八が三年前の話をする(宗山を知った)
- 十三.喜多八が三年前の話をする(宗山を見つけた)
- 十四.喜多八が三年前の話をする(宗山の家に行った)
- 十五.源三郎と秀乃進のもとに芸者・お三重到着
- 十六.お三重は楽器も踊りもお酌も何もできない
- 十七.お三重は舞の真似事なら出来るという
- 十八.お三重が誰に舞を習ったか明かし、昔話を始める
- 十九.お三重の昔話
- 二十.お三重の話を源三郎と秀乃進が聞き、喜多八に教わったことを知る
- 二十一.喜多八が三年前の話をする(宗山を懲らしめた)
- 二十二.喜多八が三年前の話をする(宗山が憤死して、それが叔父の耳に入り勘当された)
- 二十三.喜多八の話が終わる。湊屋ではお三重が舞い、源三郎と秀乃進が謡って囃した。そこへ喜多八が外から謡を合わせる
場面が飛び飛びになっていることがよく分かりますね。
これらを物語軸ごとにまとめると、
- 源三郎と秀乃進軸:一.二.六.七.八.十五.十六.十七.十八.二十.二十三
- 喜多八軸:三.四.五.九.十.十一.(十二.十三.十四.二十一.二十二)二十三
- お三重軸:十五.十六.十七.十八.十九.二十.二十三
となります。
後半になるにつれて、物語が絡み合いながら進んでいるのが見て取れます。
こうした物語の交差も『歌行燈』の面白さの一つでしょう。
-感想-
・能の知識はないけど
『歌行燈』は、能楽・狂言・国文学の要素が強い作品です。
冒頭から出てきてその存在感を放つのは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。
また、鏡花の『照葉狂言』でも出てくる「松風」という能が触れられたり、世阿弥以前からある古典的な能である「海人」などが取り上げられています。
当時(明治中期)、能作品は今よりももっと庶民的で、人々が気軽に楽しめる娯楽のひとつでした。
なので、作中で取り上げられる能作品の意味や効果などを、当時の人々はしっかりと汲み取れたと思います。
しかし、僕を含めた今の若い人には、『歌行燈』に出てくる能楽作品をきちんと解しつつ、意味を汲み取ってこの作品を読める人は少ないと思います。
とはいえ、このような「意図の取りこぼし」は多かれ少なかれ、どんな作品でも必ず起こるものでしょう。
知識があればもっと『歌行燈』を楽しめるとは思いますが、それを残念だとは思いません。
個人的に『歌行燈』で印象的だったのは、
- 辺見秀乃進が鼓を風呂敷から取り出す場面
- お三重が水中に沈められる場面
- お三重が岩の裂目に「こいし」と叫ぶ場面
- ラストの湊屋門前の場面
などです。
それから、物語が次第に解き明かされていく構成や、お三重と喜多八の神秘的な七日間も魅力的に思います。
小説は物語の筋を追うだけが楽しみではありません。
言葉の連なりから喚起されるイメージを楽しむことも、小説というコンテンツの面白さでしょう。
そうした意味で『歌行燈』という作品は、小説を自由に楽しむための練習になる、良いテキストとして機能するようにも思います。
以上、『歌行燈』のあらすじと考察と感想でした。
この記事で紹介した本