国木田独歩

国木田独歩『武蔵野』のあらすじ・解説&感想!武蔵野の場所や英詩の意味まで!

2020年7月1日

『武蔵野』とは?

『武蔵野』は、主人公が好きな武蔵野をひたすら賛美する作品です。

流れるような文章と、情感のこもった情景描写が秀逸な一篇になっています。

ここではそんな『武蔵野』のあらすじ・解説・感想をまとめました。

山田美妙の古戦場を舞台にした『武蔵野』は別作品です。

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『武蔵野』のあらすじ

昔から画や歌の題材となってきた「武蔵野」だが、今はどのようなものなのだろうか。

ここでは自分の見た武蔵野をありのままに描くことで、その問いに答えてみたい。

結論から言えば、今の武蔵野の美しさは昔と劣ることがないと思う。

美しさというよりは、詩趣と言いたい。その方が適切であるように思われる。

ところで、自分は明治二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。

その頃の武蔵野に関する日記もここに記しておくので、参考にしてみてほしい。

昔の武蔵野は、ススキなどの果てなき光景をもって美しさを讃えられていたようだが、今の武蔵野は落葉樹(主に楢)の林である。

私はこの落葉樹の美しさを最近まで解しなかったが、ツルゲーネフの『あいびき』を読んで趣を解するようになった。

まず音が良い。鳥のさえずりやどこかで実の落ちる音、落ち葉を踏みならす音に、時雨が葉に当たってささやくような音。

それから、武蔵野の野や林をくぐり抜けて、あてもなく路々を行くのも心から楽しいことだ。

武蔵野の路は我々を飽かせることなく、その時々で違った顔を見せてくれる。

だが、そうした景色というのは、地元の人々には取るに足らないものだったりする。

3年前の夏に、小金井の堤まで朋友と散歩をしたことがあった。

そこで寄った茶店の婆さんに、「今ごろこんな所へ何しに来たのか」と言われたことがある。

なるほど小金井は桜の名所だから、夏に訪れて汗をかきながら散策するのは変だと思ったのだろう。

しかし、それはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。

夏の空と林の景色の趣を、いまだ知らぬ人の話である。

自分と一緒に小金井を散策した朋友は、今は判官になって地方へ行っているのだが、自分が前号に書いた武蔵野の文を読んで手紙を書いて送ってきた。

そこには、武蔵野の「範囲」について書かれていた。

朋友いわく、武蔵野は土地上のものではなく、武蔵野の情感を有するところは、たとえ町外れだとしても「武蔵野」であるということだ。

自分も彼の意見に全く同意である。

武蔵野の趣味は自然そのものの美しさにあるのではなく、一種の生活と一種の自然が配合しているところにあるのだから。

このような町外れの光景は、何となく社会というものの縮図でも見るような思いが起こるので、趣が深いのだろう。

さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。

見たまえ、そこに片眼の犬がうずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外れの領分である。

見たまえ、そこに料理屋がある、女の影が映っている。煙や土の匂いがして、通りでは人力車の音が起こっては絶え絶えては起こっている。

鍛冶屋の前で二三人の男が何かを話している、火花が夕闇をほとばしる、話していた人々がどっと笑う、月が昇りはじめる。

色々の野菜が積んで並べてある、日が暮れるとすぐに寝る家があると思えば、夜中まで火影の見える家もある。

朝になると早くから納豆売りが都の方へ行く、日が昇るとセミが高い梢で鳴き出しす、だんだん暑くなる。

それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。

・『武蔵野』の概要

主人公 自分
物語の
仕掛け人
朋友
主な舞台 武蔵野
時代背景 明治時代
作者 国木田独歩

-解説(考察)-

・武蔵野とはどこか

武蔵野とは、一般的に埼玉県川越市から、東京都府中市にかけてにあった関東平野を指します。

武蔵野は昔から広大な自然が見られる平野として有名で、古くには『万葉集』の和歌や、『更級日記』でもその自然景観が取り上げられてます。

行き来の容易でなかった時代から、武蔵野は日本人の原風景として、多くの人々に心の中で親しまれていました。

しかし、江戸時代に入ると都が東京へと移り、人口増加のため武蔵野の原野は徐々に田畑へと変わってゆきます。

明治時代にはほとんど「武蔵野」は姿を消していましたが、とはいえ完全に消失したわけではありませんでした。

このような「今の武蔵野(明治時代の武蔵野)」を取り上げて、昔の武蔵野と比較して「今の武蔵野」は美しいかどうか、ということを書いたのが国木田独歩の『武蔵野』です。

国木田の定義する「今の武蔵野」の範囲は以下の通りになります。

 武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円まるく甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。

国木田独歩『武蔵野』

東京に馴染みのある人なら想像しやすいのではないでしょうか。

こうした地理的な「武蔵野」に加えて、「武蔵野」的な趣を感じられるところが「今の武蔵野」の範囲内となっています。

つまり、「武蔵野」の限界は彼の心の中にあるのであり、そうした意味では昔の人の「武蔵野」と違いはありません。

この彼の中にある「武蔵野」を、明治時代的な武蔵野イメージとして再定義し、「新たな武蔵野」を人々の心に植え付けたが、国木田独歩の『武蔵野』という作品になります。

ちなみに現代の武蔵野はほとんどが市街地となっており、昔の武蔵野はもちろん、国木田が描いた武蔵野の面影すら失われています。

ただし、埼玉県入間郡三芳町の上富地区など、一部の地域では武蔵野的な雑木林の面影が残っている所もあります。

・主人公の武蔵野賛美

『武蔵野』は、主人公による武蔵野賛美がひたすら綴られる作品です。

具体的に主人公が趣を感じているのは以下のような点です。

  • 楢類の木々からなる落葉林
  • 黄葉や落葉などの葉っぱ
  • 葉が風でそよぐ音、また時雨が葉を打つ音
  • 林に注ぐ初夏の日の光
  • 落葉林の中での気ままな遊歩
  • 思いがけず出会う落日の美観
  • 武蔵野を流れる大小の水流
  • 生活と自然が配合した場所である町外れ

このような素材が「武蔵野」を構成し、主人公はそこに武蔵野の詩趣を見出しています。

ただし、主人公は昔からこうした景観が好きだったわけではありません。

たとえば、落葉林に詩趣を見出したのは最近になってからのことだと主人公は言います。

また、武蔵野を流れる水流も、東京に来た頃は「濁っていて汚い」と感じていましたが、慣れてみるとこの濁った感じが平原の景観に適っていると認識を新たにしています。

こうした認識の転換は、作中で挿入される「小金井の茶店の婆さん」の話で象徴的に描かれています。

主人公が夏の小金井に行ったとき、茶店の婆さんが「今頃何をしにきたのだ」と言います。

小金井は桜の名所なので、夏に来るのは愚かだという含みがあるセリフです。

小金井は春が美しいと決めてかかって、他に美観を見出そうとしていないお婆さんの姿が描かれています。

これは、落葉林の美しさを知らなかったかつての主人公や、濁った水流に趣を感じなかったかつての主人公と全く同じです。

型にはまった心でなく、美しさを感じ取るための新たな視点が大事だということが、『武蔵野』では描かれています。

・作中に出てくる他作品

国木田独歩の『武蔵野』では、以下の文学作品が作中に取り上げられています。

  • 『あいびき』ツルゲーネフ
  • 『泉』ワーズワース
  • 熊谷直好の短歌
  • 与謝蕪村の俳句

ここでは作中に出てきた作品の概略を記しておきます。

・『あいびき』ツルゲーネフ

ツルゲーネフの『あいびき』は、白樺の林で自然を感じている主人公が、二人の男女のやり取りを目撃する物語です。

『武蔵野』では、この白樺の林と楢の林が対比的に描かれているほか、主人公の自然の感じ方への共感も言及されています。

ちなみに国木田独歩は、二葉亭四迷が訳した『あいびき』に影響され、言文一致体の随筆で初めてとなる『武蔵野』を書いています。

・『泉』ワーズワース

“――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”

意訳:さあ、この水の心地よい音色と合わせて、民謡か夏の昼間にふさわしい歌でも唱いましょう

『武蔵野』で引用される英詩は、イギリスの詩人ワーズワースの『泉』。

72歳の老人マシューと若い「私」の対話が、泉のほとりで自然豊かに描かれる内容です。

『武蔵野』では、主人公が小金井の橋の下の水音を聞いて、この詩を思い出しています。

・「夜もすがら木の葉かたよる音きけばしのびに風のかよふなりけり」熊谷直好

意味:「一晩中、落葉が少しづつ動いている音が聞こえるので、ひっそりと風が通っているのが分かる。」

主人公は「山間に生まれながら、この和歌を得心したのは武蔵野の冬を経験しているときだ」と言って和歌を引用します。

ちなみに作中では濁音表記なしですが、ここでは分かりやすいように濁音表記ありにしました。

・「山は暮れて野は黄昏の薄かな」与謝蕪村

山は暮れ野は黄昏の薄かな

国木田独歩『武蔵野』

  • 山→野→ススキ

という遠近法を用いて、黄昏の野を情感豊かに描いている、与謝蕪村の一句です。

『武蔵野』では、まさにこの一句にあるような情感を起こさせる景色が武蔵野にあると説明されます。

以上4つが『武蔵野』で取り上げられる文学作品です。

ツルゲーネフやワーズワースは、国木田独歩に強い影響を与えた作家でもあります。

国木田独歩の世界観が好きな方は彼らの作品も気にいると思うので、機会があれば触れてみてください。

-感想-

・「美意識の転換」と「視点の変化」

この作品から伝わってくるのは、「武蔵野ってこんなに素敵なんだよ!」という国木田独歩の熱意です。

小説というよりは、随筆といったほうがよさそうな作品かもしれません。

彼の「武蔵野」を感じるためには、松林ではなく楢の雑木林の美しさを感じ、小川の清流ではなくそこいらに流れている「生きた」濁流の趣きを認める必要があります。

こうした「美意識の転換」や「視点の変化」の必要性は、『武蔵野』で強く主張されていることです。

西洋化が進みきった現代の僕たちからすると、雑木林の美しさを解するのにはほとんど抵抗がありません。

つまり、「美しい雑木林」という概念があるから美しいと思うわけであり、これは僕たちの美意識が変化したために、雑木林に美しさを見出しているのです。

一方で、視点を変化させることでも、新たな景色に出会うことができます。

たとえば、日本の街に張り巡らされている電線などが、僕たちの気づいていない景色として挙げられます。

空にかかった電線は、僕たちからみれば生活的な景色の一部ですが、海外から見ると日本らしさあふれる独特な景色として写るようです。

このような「美意識の転換」や「視点の変化」というのは、いずれも既にあるものを異なる角度から見るということです。

ものや景色自体はなんでもありません。

ものや景色に何か意味を与えることで、新たなが価値観が生まれるということを、『武蔵野』という作品は示しているように思います。

以上、『武蔵野』のあらすじと考察と感想でした。

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