アフリカの歴史概要
「アフリカには歴史がない」。そう言われる理由は、アフリカ諸国が文字を持たなかったからです。西洋的な「歴史」とは、何かに書き記されたものであり、それがなかったアフリカ諸国には「歴史がない」ということになったのです。
しかしアフリカ大陸は、ほかの多くの地域と同じように、狩猟から農耕への変化があり、鉄器の革命があり、戦争があり、大国が作られていました。
ここではそんなアフリカ諸国の歴史を、紀元前3000年から現在まで、簡略的に見ていきます。
紀元前3000年:農耕の痕跡
アフリカ大陸では紀元前3000年ほどから農耕の痕跡が見つかっていて、主に狩猟や採集をしながら、農耕もしながら生きていたことが分かっています。彼らは一箇所に留まることなく、大陸を縦横に移動していました。
アフリカ大陸にはいくつかの大きな川(ニジェール川・ナイル川・ザンベジ川・リンポポ川・コンゴ川)があり、その周辺で集落や共同体が作られていきます。

1 = 紀元前2000年 ~ 1500年 バントゥー系民族の起源 2 = 紀元前1500年頃 一度目の移動 2.a = 東バントゥー族 2.b = 南バントゥー族 3 = 紀元前1000年 ~ 500年 東バントゥー族のウレウェ文化の中心地 4 - 7 = 南進(Wikipediaより)
紀元前500年~紀元100年:鉄器の広まりによる農耕文化と大移動
地域差はありますが、紀元前200年ころになると鉄器が普及し、農耕の作業効率がグッとあがります。作物はソルガム(もろこし)やヤマノイモなどが育てられていました。
それにともなって、サハラ以南に生活していたバンツー系民族(ブラックアフリカ)の移動が活発になり、分布を南へ大きく広げていきます。

9 = 紀元前500年 ~ 0年 コンゴに存在した中心地 10 = 起元0年 ~ 1000年 拡大の最終段階
1世紀:「バナナ革命」――森に住めるようになったアフリカの人々
紀元100年ころ。マレー人がもたらしたアジア原産のバナナが、アフリカの人々の生活に革命を起こします。
アフリカの熱帯雨林には食べ物がなかったため、人が住めないところでした。しかしバナナは湿潤な森林にも植えることができ、しかも育てる労力が少ないので、アフリカの人々が熱帯雨林域に進出する契機となったのです。これを「バナナ革命」といいます。
~15世紀:各地で王国・巨大集落が形成される
「バナナ革命」によって生活域が拡大したアフリカの人々はより分布を広げ、農耕民と狩猟採集民が合わさりあっていき、大きな共同体を作っていきます。
ナイル川流域のアクスム王朝(1~11世紀)、ザンベジ・リンポポ川流域のトウツェ遺跡(7世紀~13世紀)やマブングブエ(11世紀)、ニジェール川流域のガーナ王国(8世紀~11世紀)など、大河を中心に王国が興ったのもこの時代です。
14世紀~18世紀:ポルトガルの勢力拡大と奴隷貿易の始まり

アフリカ:奴隷の様子
大航海時代のはじまりにともなって、アフリカ大陸にポルトガルの手が伸びてきます。
特に14世紀末にコンゴ川流域で興ったコンゴ王国や、ザンベジ・リンポポ川流域のムタパ王国などは、長い間ポルトガルの脅威にさらされ続けます。
そのころから西洋との奴隷貿易も始まっており、売られていったアフリカ大陸の奴隷たちは、「新大陸アメリカ」での労働力として使われました。
ちなみに、奴隷貿易というとネガティブなイメージですが、当時奴隷として売られていたのは王国の犯罪者などで、コンゴ側にとっても有益な取引として成立していました。一方、アフリカの主な輸入品は武器や雑貨などです。
18世紀後半~19世紀:資源を求めた西洋のアフリカ侵略
18世紀に西洋で産業革命がおこると、工業に必要な資源の需要が高まります。そこで西洋諸国はアフリカの天然資源に目を付けるのです。ここから、アフリカにとって真の苦難の時代が到来します。
西洋諸国はキリスト教の布教とともに、アフリカの土地を自由に切り取っていきます。この様子はアフリカ文学の父、チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』でも描かれています。
特に1880年~1910年は、アフリカ諸国にとって侵略と屈服の時期でした。このわずか30年の間で、アフリカ大陸はリベリアとエチオピアを除く全ての国が、バースデーケーキを切り分けるように西洋諸国によって分割されたのです。
アフリカ諸国はどのように侵略されたのか
ヨーロッパ列強の侵略方法はワンパターンでした。土地の首長に対して、「権力は保護してあげるから主権を渡してください。従わなかったら武力で制圧します」と迫ったのです。
アフリカ諸国は小さな共同体が多く、民族は団結して戦うことができませんでした。なおかつ、戦力の差もすさまじかった(アフリカは弓と槍、少しの単発式ライフル。西洋は機関銃)ので、侵略は驚くほどスムーズに進んでいきました。

左:マキシム機関銃
右:機関銃と戦ったジンバブエのンデベレ軍
立ち向かった勢力は徹底的に殲滅された
そんななか、西洋の侵略に立ち向かい、民族の伝統を守ろうと抗戦する勢力も多くありました。
- ブルキナファソ
- エチオピア
- ウガンダ
- アシャンティ王国¹
- ダホメ王国
- マタガスカル・メリナ王国
- ヘレロ人
- ナンディ人²
- ショナ人・ンデベレ人³
- コンゴ人
など、枚挙に暇がありません。
しかし、そんな地域は徹底した制圧がなされます。戦力差が大きすぎるゆえ、例えばダホメーの戦いでは、王側の死傷者が5000人に対して、フランスの死傷者は77人にすぎませんでした。
そのため、多くの国や共同体は言われるままに白人を受け入れていきました。
- アシャンティ王国1900年。王族が大切にしてきた神器である「黄金の床几」に、白人の総督が「それは私が腰かけるものである」と言ったことをきっかけに、皇太后(ヤア・アサンテワア)自らが立ち上がり戦争をしかけた。
- ナンディ人=放牧民だった彼らは、侵略してくるイギリスに対して最後まで抵抗を試みた。夜襲や遊撃戦でイギリスと互角に戦い、手こずったイギリスは、交渉と偽っておびきだした指導者たちを殺す形でようやく占領した。1905年
- ショナ人とンデベレ人=1896年。白人に対する怒りや不安を原動力に、霊媒師(スビキロ)が中心となって武装蜂起。ヨーロッパ人は450人、現地人は8000人の犠牲者が出た。
1914年時点:アフリカの植民地
こうして侵略がスムーズに終わり、1914年には、アフリカ大陸のほぼ全ての国が、西洋諸国の支配下に置かれています。

アフリカ分割
- フランス領(青)=アルジェリア・チュニジア・モーリタニア・セネガル・ベナン・モロッコ(中央部)・二ジェール・チャド・中央アフリカ共和国・ガボン・コンゴ共和国・ギニア・マリ・ブルキナファソ・マダガスカル
- イギリス領(赤)=ガンビア・シエラレオネ・ナイジェリア・コートジボワール・ウガンダ・ケニア・ソマリア(北部)・ザンビア・ジンバブエ・ボツワナ・レソト
- イギリス占領区(赤)=エジプト・スーダン・南アフリカ共和国
- ポルトガル領(濃紫)=アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ
- ドイツ領(水色)=トーゴ・ナミビア・タンザニア・ブルンジ・ルワンダ
- スペイン領(薄紫)=赤道ギニア・モロッコ(北部)・モロッコ(南部)
- イタリア領(緑)=リビア・ソマリア(中南部)
- ベルギー領(黄)=コンゴ
1914年~1950年:第一次,第二次世界大戦を経たナショナリズムの盛り上がり

ドイツに占領されるフランス・パリ
引用元:Bundesarchiv, Bild 183-L05487 / CC-BY-SA 3.0
西洋諸国に分割されたアフリカですが、第一次世界大戦と第二次世界大戦を経験すると、絶対的な力を持っていると考えられていたイギリスやフランスの衰退を目の当たりにします。
さらに、世界大戦で兵士として動員された多くのアフリカ人が、外の世界を知って見聞を持って帰ったことで、英仏に支配されず、自分たちで国を守ろうという「ナショナリズム」が盛り上がります。
1960年代:アフリカ諸国が独立を果たした「アフリカの年」

黄色が1960年に独立を達成した国
こうしたナショナリズムを経て、1960年代には多くのアフリカ諸国が独立を果たします。
- 1960年独立:ガボン・カメルーン・コートジボワール・コンゴ・ザイール・セネガル・ソマリア・チャド・中央アフリカ・トーゴ・ナイジェリア・ニジェール・ブルキナファソ・ベナン・マダガスカルマリ・
- 1961年独立:シエラレオネ・モーリタニア
- 1962年独立:タンザニア・ブルンジ・ルワンダ
- 1963年独立:ウガンダ
- 1964年独立:ケニア
- 1965年独立:ザンビア・マラウィ
- 1966年独立:ボツワナ・レソト
- 1968年独立:赤道ギニア・スワジランド(現エスワティニ)
1960年代に独立したアフリカ諸国
こうして政治的に独立を果たしたアフリカ諸国ですが、多くの国が経済的な独立は果たすことができず、現代でもなお、アフリカ諸国は経済難から脱しきることができていません。
1910年~1991年:反対路線を突っ切った南アフリカ共和国――アパルトヘイト時代の始まり
南アフリカ共和国は、こうしたアフリカ諸国の風向きとは反対に、白人支配層が黒人の独立を断固として認めない政策を採った国です。この政策は「アパルトヘイト」と呼ばれ、国際社会の非難を浴び続けました。
アパルトヘイトの始まりは1910年。イギリスが南アフリカを統治すると、原住民の黒人に不利な政策が次々と施行されていきます。
- 1911年:「鉱山労働法(白人政府が白人労働者の暮らしを守るために取り決めた最初の人種差別法)」
- 1913年:「原住民土地法(アフリカ人の居住地を全土の7.3%と定めた法律。白人の所持する鉱山や農場の労働力確保のため。これによりアフリカ人の農業は衰退し、彼らは出稼ぎに出るようになります。)」
- 1927年:「背徳法(白人と非白人〈黒人、カラード、インド系〉の恋愛関係を禁止し、カラード(混血)の根絶を目的に制定された法)」
1948年~1989年:アパルトヘイトの拡大

「この海水浴場は白人種集団に属する者専用とされる」と記された標識:南アフリカ
Taken and donated by Guinnog., -
さらに1948年。アパルトヘイトをスローガンに掲げた国民党が政権を得ると、アパルトヘイトは一層拡大します。
- 「集団地域法(人種別に居住区を定めた法律)」
- 「隔離施設留保法(レストラン、ホテル、列車、バス、公園に映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別される法律)」
- 「人口登録法(白人・カラード・原住民・アジア民など人種を分けた法律)」
- 「投票者分離代表法(非白人の参政権をなくす法律)」
このようなアパルトヘイト法案が300以上も施行されます。そして、1961年にはこうした白人の支配体制のもと、南アフリカ共和国が誕生します。
~1989年:アパルトヘイトに反対する人々

ネルソン・マンデラ
引用元:South Africa The Good News / www.sagoodnews.co.za
アパルトヘイトに対して反対運動をとった人々もいました。
代表的な人物には、
- ネルソン・マンデラ(1964年に国家反逆罪で捕まり、終身刑を言い渡される)
- スティーブ・ビコ(「黒人は人種的に劣等である」と言われ続け、自らその劣等性を受け入れてきたアフリカ人に、黒人であることに誇りを持とうと呼びかけた人物。1977年に政府に捉えられ、拷問ののち死亡)
- デズモンド・ツツ(アフリカ人初の大司教、ノーベル平和賞受賞者)
などがいます。
1980年代に入ると、南アフリカ共和国への国際世論の風向きも強まり、アパルトヘイト政策は一層非難されました。このころ、南アフリカ共和国内でも反アパルトヘイト運動が盛り上がりを見せます。
1991年:アパルトヘイト全廃へ
1989年。アパルトヘイト撤廃を求める国際世論に抵抗していた、南アフリカ共和国のピーター・ウィレム・ボータ大統領が病で倒れると、後任のフレデリック・ウィレム・デクラークが政策の方針を転換。アパルトヘイト全廃へと舵を切り、これによってネルソン・マンデラも釈放されます。
1991年にネルソン・マンデラ政権が誕生すると、南アフリカ共和国は差別も隔離もなくなった社会を進み出します。しかし、白人支配下にあった時代が長すぎたため、白人と黒人の格差は簡単には埋まりません。
南アフリカ共和国の多くの黒人は政治闘争に明け暮れていたため、仕事もお金も教育もなく、法律的に白人と同じ地域に住めると言われても、すぐに土地や家を買うことが出来なかったので、現実的にはそうはいきませんでした。現代では富裕層の黒人も多くいますが、実際的な平等が得られるには、いまだに多くの課題が残っています。
1960年前後~:一党制から多党制へ――汚職がはびこるアフリカ諸国
話をアフリカ諸国全体へと戻し、近代のアフリカを少しだけ見ていきます。
独立当初、アフリカのほとんどの国が、一党制か軍政でした。こうした政治制度が採られたのは、国における民族の対立を軟化させるためという理由です。
しかし実際のところ、一党制や軍政は、汚職や独裁を生み出す原因となっていました。そのため、1980年代には多くの一党制・軍政政府が破綻し、現代ではほとんどのアフリカ諸国が「多党制」を採っています。
1960年~現在:現代へつづく内戦と紛争
権力闘争や資源の奪い合いなど、さまざまな要因が複雑に絡み合いながら、各地で内戦や紛争が多発しました。一党制・軍政を採っていたことが原因で、民族同士の対立を生み出し、内戦や紛争へと広がった例(ビアフラ戦争など)もあります。
また、誰もが簡単に武装できることも紛争の一因です。たとえば市場では、手榴弾が数百円で売られており、銃なども簡単に入手することができました。各国の政治が安定してきた現在でも内部には様々な問題があり、紛争は絶えていません。
アフリカ諸国が独立しはじめた1960年代以降、起こった内戦・紛争は以下の通りです。
- 1955年~1972年:スーダン・内戦
- 1960年~1965年:コンゴ民主共和国・コンゴ動乱
- 1962年~1964年:マリ・トゥアレグ問題
- 1975年~1992年:モザンビーク・内戦
- 1975年~2002年:アンゴラ・内戦
- 1977年~1978年:コンゴ民主共和国・シャバ紛争
- 1977年~1988年:ソマリア・エチオピア・オガデン紛争
- 1978年~1979年:タンザニア・ウガンダ戦争
- 1979年~1987年:チャド・内戦
- 1983年~2005年:スーダン・内戦
- 1988年~:ソマリア・内戦
- 1989年:セネガル・モーリタニア紛争
- 1989年~1996年:リベリア・内戦
- 1990年:マリ・トゥアレグ問題
- 1990年~1994年:ルワンダ・内戦
- 1991年~2002年:シエラレオネ・内戦
- 1993年~1994年:コンゴ共和国・内戦
- 1993年~2003年:ブルンジ・内戦
- ~1994年:南アフリカ・アパルトヘイト闘争
- 1996年~1997年:コンゴ民主共和国・第一次内乱
- 1997年~1999年:コンゴ共和国・内戦
- 1998年~2000年:エチオピア・エリトリア戦争
- 1998年~2002年:コンゴ民主共和国・第二次内乱
- 1999年~2003年:リベリア・内戦
- 2002年~2011年:コートジボワール・内戦
- 2003年:スーダン・ダルフール紛争
- 2007年:マリ・トゥアレグ問題
- 2009年~:ナイジェリア・ボコハラム
- 2011年~2020年:リビア・内戦
- 2012年:マリ・トゥアレグ問題
- 2012年~:中央アフリカ・内戦
- 2013年~:南スーダン・内戦
- 2016年~:コンゴ民主共和国・カサイ州の武力衝突
- 2020年:マリ・トゥアレグ問題
近年では、ナイジェリアのボコ・ハラムの活動が目立ちます。また、内戦とまではいかずとも、治安の悪い地域では拉致や暴行などが頻発しているのが現状です。
・アフリカ史をもっと知りたい方に
ここでまとめたアフリカ史は、
- 宮本正興,松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』講談社現代新書
- 勝俣誠『新・現代アフリカ入門』岩波書店
などを参考に、アフリカ大陸5000年の歴史を簡略化してまとめたものです。より詳しいアフリカ史を知りたい方は、上記本が参考になるのでおすすめです。
アフリカ理解メモ
・アフリカへの偏見
- 文字を持たない文化だったので、歴史がないと考えられてきた。
- 未開の野蛮人と考えられてきたため、理性がないと考えられてきた。
- イボ・ウクウ美術やヨルバの工芸品なども「アフリカらしくない」と捉えられてきた(アフリカ人は繊細な工芸品を作れないという偏見)。
- 王国などは持たないという偏見。→様々な王国が興亡してきた。
・コンゴ川周辺の歴史
- 紀元前200年ごろに鉄器製品が安定的に作られるようになると、農耕の作業効率化に伴うバンツー系民族の移動が加速する(ただし森林には作物が住めない)。
- 14世紀の終わりには、コンゴ川の交易を拠点としたコンゴ王国ができている。当時はポルトガルと同等の関係だった。また、コンゴ川源流のほうでは、ルバ王国・ルンダ王国も形成されている。
- 西との交易が盛んになるとキャッサバが伝わり、農耕の歴史を新たにする。というのも、キャッサバはバナナ以上に育てやすい農作物だったからで、これを機にアフリカの農耕安定性は飛躍的に高まった(アフリカ農業革命)。
- ポルトガルとの貿易は、高性能な武器類が輸入品で、輸出品は奴隷だった。この奴隷貿易では累計500万人以上が売られていったという。
- 1800年代になると、奴隷逃れや内乱などによって奴隷供給が追いつかなくなり、コンゴは衰退していく。
・リンポポ・ザンベジ川周辺の歴史
- アフリカ大陸南部はほかに比べてましな土地だったため、食糧の確保が比較的安定していた。また、金が産出したため、アジアやインドなどとの交易も行われた。
- バンツー語系のショナ語を話す人々がこの地にやって来た。バンツー人はカメルーンを起源に、紀元前500年頃から中部・東部・南部アフリカへと拡散していった。200年にはザンベジ川を越え、300年にはリンポポ川に到着している。
- このリンポポ・ザンベジ川流域では7世紀~13世紀までに大きな共同体があったことがトウツエ遺跡から確認されている。
- 少し川を下ったところにあるシュロダでは9世紀ころの集落が、その周辺には11世紀に栄えた国家マブングブエの丘がある。
- 13世紀には巨大な集落「グレートジンバブエ」が形成され、広い範囲で権力を持った(人口1万8000人。広さ720ヘクタール)。牧畜や交易で富を増やしたと考えられる。
- グレートジンバブエのあとは、ムタパ国とトルワ国が形成された。トルワは1450年~1700年ころまで続いた。
- ムタパはポルトガルとの繋がりが深く、1560年にはムタパ王がキリスト教に改宗している。しかし翌年、宣教師(シルベイラ)が暗殺されたことをきっかけに関係が悪化していく。その後ムタパ国内で親族間の覇権争いが激化する。
- 1685年。高原を支配していたチャンガミレがトルワを侵略。1690年代にポルトガルがムタパを攻め始めると、ムタパはチャンガミレに援軍を要請。彼のおかげでポルトガル軍を追い返すことができ、その後200年は影響を受けなかった。19世紀までチャンガミレの高原支配は続いた。
- 18世紀以降は大国が興ることはなく、首長制の小国が割拠する時代となった。その数は200ヵ国にのぼる。
・ニジェール川周辺の歴史
- マリ東部のカルカリチンカート遺跡では、紀元前2000年~1500年ころの農耕形跡が見つかっている。
- 西アフリカの鉄器はメロエという王国から伝来したという説が有力だが、近年では独自の鉄文化を持っていたという説もある。その証拠にナイジェリアのタルガ遺跡からは紀元前500年の鉄利用の形跡が見られる。
- 興味深いのは、ナイジェリアのジョス高原で発見された鉄器文化(紀元前500年~200年)に施されていた装飾が、その後1000年経過したヨルバ族の装飾と酷似していることである。
- ニジェールのエル・ワレジ遺跡(600年~1000年)やナイジェリアのイボ・ウクウ遺跡(900年)では、その墓や埋葬跡から豪華な装飾品や宝石が発見されて、貴人や階層のあったことが考えられる。
- 8世紀にはガーナ王国が形成される。ガーナ王国ではイスラム教が伝来していたが、一方で伝統的な宗教もおあり、ふたつは共存関係にあった。「首都は二つの都市に分かれていて、一方はイスラム教徒が居住し、モスクは一二を数えた。他方には王の住む森に包まれた都市があった(アル・バクリ)」
- 最盛期には人口が20000人に及んだと推定される。11世紀ころに衰退した。
- ガーナ王国が衰退するとマリ王国(現在でも西アフリカに広く居住しているマンデ系民族が形成した王国)が興る。金を産出するため国は豊かだったが、16世紀末にモロッコの勢力に敗れると衰退し、17世紀には消滅してしまった。
- マリ王国に代わりソンガイ王国が勢力を拡大する。このガーナ王国、マリ王国、ソンガイ王国は勢力の範囲が広かったために「帝国」と表されることもある。
- ハウサ諸国では10世紀ころから小国が形成されている。
- イボ族は人口も多く、遺跡から青銅や銅製品が見つかるなどしているが、王のような権力者が不在だったため国にはなっておらず、村落連合レベルに留まっている。
- ヨルバ族は13世紀ころから10あまりの小国を形成している。ルーツを神話的な始祖オロドゥマレにあるとする「神なる王」をいただく国家。アシャンティ王国にも同じ国家形式がみられる。
・ナイル川周辺の歴史
- エジプトは古い歴史を持つが、基本的に「アフリカ」はサハラ以南の大陸を指すため、ここでは含めない。
- エジプトから枝分かれして出来たヌビア人の国家が、紀元前6世紀ごろメロエに形成される。このメロエ王朝は4世紀まで約1000年間継続される。
- 4世紀にメロエを崩壊させたのはアクスムという国家だが、7世紀になるとアクスムも衰退する。その後はザグエ王朝(~1280年)、ソロモン王朝(~1535年)と続くがいずれも滅亡。17世紀に栄えたのは、オモロという半農半牧民の種族だった。
- 上ナイルの諸民族の中では、18世紀にシルック族が頭1つ抜き出て、シルックの王政は今もなお続いている。このシルックの王政は、王が権力を持つわけではなく、国民の精神的な象徴として存在する。王が病に伏せたり、力が弱くなると国民の力も弱まると考えられていたため、王が弱体化すると殺してしまう王殺しの風習があった。この風習はナイル上流のニョロ王国にも見られる。
・アフリカ歴史メモ
- アフリカの人々は一箇所に留まることなく、大陸内を縦横に移動しながら集団を作ってきた。
- 紀元前3000年には農耕文化があった。
- 川の近くで集落が増える。川は交易の拠点ともなった(ニジェール川・ナイル川・ザンベジ川・リンポポ川・コンゴ川がアフリカの五大大河)。
- 紀元前500年ころの後期石器時代は狩猟民族が一般的であり、彼らの生活はその後カラハリ砂漠に住むサン人(ブッシュマンと呼ばれる)に引き継がれていった。
- 15世紀から始まった西洋との貿易は、常にアフリカを敗者側へと立たせた。
- 18世紀後半は、西洋諸国が自由にアフリカの土地を切り取り始めていた。
- 1880年~1910年は、アフリカにとって侵略と屈服の時期だった(『崩れゆく絆』にも)。このわずか30年の間で、アフリカ大陸はリベリアとエチオピアを除く全ての国が西洋諸国によって切り取られた。
- アフリカが侵略された理由→西洋諸国は産業革命によって胴の需要が伸び、アフリカに資源を求めた。
- アフリカ側の民族は団結して戦うことができなかったし、戦力の差もすさまじかった(アフリカは弓と槍、少しの単発式ライフル。西洋は機関銃)。
- ヨーロッパ列強の侵略方法はワンパターン。土地の首長に対して「権力は保護してあげるから主権渡して。従わなかったら滅ぼします」と迫った。
- そんななか立ち向かう勢力(ブルキナファソのモシ王・エチオピア王・ウガンダのムワンガ王、アシャンティ王国、ダホメーなど)もあったが、そんな地域は徹底した制圧がなされた。戦力差が大きすぎるゆえ、例えばダホメーの戦いでは王側の死傷者が5000人にたいして、フランスの死傷者は77人にすぎなかった。
- アフリカの支配費用を抑えるため、西洋諸国は間接統治(アフリカの社会・政治制度を保存したまま、税を搾り取る)をとった。
- 1910年にイギリスが南アフリカを統治すると、アパルトヘイト(人種隔離政策)の兆しが見え始める。(例:「1911年:鉱山労働法(白人政府が白人労働者の暮らしを守るために取り決めた最初の人種差別法)」「1913年:原住民土地法(アフリカ人の居住地は全土の7.3%)←白人の所持する鉱山や農場の労働力確保のため。これによりアフリカ人の農業は衰退し、彼らは出稼ぎに出るようになった。」「1927年:背徳法(白人と非白人(黒人、カラード、インド系)の恋愛関係を禁止し、カラード(混血)の根絶を目的に制定された。)」)
- 1948年。アパルトヘイトをスローガンに掲げた国民党が政権を得ると、アパルトヘイトは一層拡大する。(「集団地域法(人種別に居住区を定めた法律)」「1953年:隔離施設留保法(レストラン、ホテル、列車、バス、公園に映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。白人専用の場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。)」「人口登録法(白人・カラード・原住民・アジア民など人種を分けた法律)」「投票者分離代表法(非白人の参政権をなくすもの)」)
- 第二次世界大戦後、世界中が人種差別撤廃に向けて動き出す(戦争で白人も黒人も同じ人種だということが浮き彫りになった)。1957年のガーナ独立をきっかけに、1960年代はアフリカの年と言われるほど多くのアフリカ諸国が独立していった。
- しかし、こうした世界の風向きとは反対に、南アフリカの白人支配層は自らの利益を守ろうとアパルトヘイト政策を強めていき、300ものアパルトヘイト法案を次々と施行していった。そして1961年にはこうした支配体制のもと、南アフリカ共和国が誕生した。
- このアパルトヘイトに対して反対運動をとった人々もいた。代表的な人物がネルソン・マンデラである。ほかにも、スティーブ・ビコ(黒人であるがゆえの人種的劣等性を強調され、自らその劣等性を受け入れてきたアフリカ人に、黒人であることに誇りを持とうと呼びかけた。1977年に政府に捉えられて拷問ののち死亡している)やデズモンド・ツツ(アフリカ人初の大司教、ノーベル平和賞受賞者)などがいる。
- 1980年代に入ると、南アフリカへの国際世論の風向きも強まり、アパルトヘイト政策は一層非難された。このころ南アフリカ共和国内でも反アパルトヘイト運動が盛り上がる。
- 1989年。アパルトヘイト撤廃を求める国際世論に抵抗していた南アフリカ共和国のピーター・ウィレム・ボータ大統領が病で倒れると、後任のフレデリック・ウィレム・デクラークが政策の方針を転換。アパルトヘイト全廃へと舵を切り、これによってネルソン・マンデラも釈放された。
- 1991年にネルソン・マンデラ政権が誕生すると、南アフリカ共和国は差別も隔離もなくなった社会を進み出す。しかし、白人支配下にあった時代が長すぎたため、白人と黒人の格差は簡単には埋まらない。黒人は政治闘争に明け暮れていたため、仕事もお金も教育もなく、法律的に白人と同じ地域に住めると言われても、現実的にはそうはいかず、実際的な平等が得られるにはいまだに多くの課題が残っている。
アフリカの歴史
・技術
- 西アフリカでは、紀元前500年以上前から鉄器製品の痕跡がある。
- 紀元前200年ころには鉄器製品が使われていた。
・農耕
- 紀元前3000年には農耕文化があり、ソルガムなどが栽培されていた。ヤマノイモ・アブラヤシなども。
- バナナが100年頃に伝わる。バナナは育てる労力が少ないうえ、湿潤な森林にも飢えられるので、熱帯雨林域にもアフリカの人々が進出する契機となった(バナナ革命)。この農耕民と狩猟採集民が合わさり大国の礎となった。
- 14世紀になるとキャッサバが伝わり、農耕の歴史を新たにする。というのも、キャッサバはバナナ以上に育てやすい農作物だったからで、これを機にアフリカの農耕安定性は飛躍的に高まった(アフリカ農業革命)。
・貿易
- 14世紀には奴隷貿易が始めっていた。
- 18世紀なかごろにはインドを対象に象牙の価格が4倍に上がった。銃器の普及により象を狩ることが簡単になったため、象牙はしばらく貿易の主軸だった。
- 産業革命と同時に油の需要が高まり、アブラヤシや落花生などの油が輸出された。
―参考資料―
- 宮本正興,松田素二編『新書アフリカ史』講談社現代新書
- 勝俣誠『新・現代アフリカ入門』岩波書店
- 吉田敦『アフリカ経済の真実』筑摩書房
- 平野克己『経済大陸アフリカ』中央公論新社
- トム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』集英社