『女生徒』とは?
『女生徒』は太宰治の短編小説です。主人公の独白体を利用して、少女の心理が描かれていきます。
『人間失格』で有名な太宰治ですが、実は女性語りの名手でもあります。
たとえば、『斜陽』や『きりぎりす』などが太宰の女性語り小説として有名ですね。
『女生徒』は、そんな太宰治の女性語り特有の文体と、ある女学生の日記を元にした生の声に近いみずみずしさが光る作品です。
-あらすじ-
女生徒の主人公は、「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。」と思いながら布団から起きます。
お母さんは朝から誰かの縁談のために大忙し。主人公は親切すぎるお母さんを少し気の毒に思います。
朝ご飯を食べて、電車に乗って、学校へ行きます。
勉強をして、お昼ご飯を食べて、放課後には友達と美容室へ行きます。
けれど、ふと我に返ると、主人公はなんだか自分が嫌になるのです。
家に帰ると、お客さんがいます。お母さんはお客さんの前でお愛想をしているので、主人公はそんな母を見るのが嫌でたまりません。
けれど、2,3年前にお父さんが死んで、お母さんも頑張っているんだと思うと、優しくしようと思います。
お客さんが帰って、お母さんとお話をして、お風呂に入って、それから寝ます。
主人公は、「眠りに落ちるときの気持ちって、へんなものだ。」と思いながら、朝まで眠ります。
-解説-
・-概要-
主人公 | 私(女生徒) |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 昭和初期 |
作者 | 太宰治 |
・「、」が多すぎる?太宰治の特徴的な文体
『女生徒』は読点がとても多い文体で書かれています。冒頭の「朝目覚めたときの気持ち」を表現する一文をみてみましょう。
箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。
この文章の中には、読点が23個もあります。とても多いですね。意識的に短い言葉に区切られていることが分かります。
ためしに同じ文章で、あまり区切らないものを作ってみます。
箱をあけるとその中にまた小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中にもっと小さい箱があって、そいつをあけると、またまた小さい箱があって、その小さい箱をあけるとまた箱があって、そうして七つも八つもあけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。
どうでしょうか?全く雰囲気が違いますね。少し固い感じがして、勢いもあります。
では、読点を多用することで生まれる効果はなんなのでしょうか?それは、助詞を省略できるということです。
助詞とは、「○○が、○○に、○○を」のような、言葉と言葉をつなぐはたらきをする部分です。「てにをは」というやつですね。
もう一度、本文を見てみましょう。
「何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。」
この文章は言葉を句切っているだけで、助詞が省略されていることが分かります。
これの読点を取って、適当な助詞を入れたならば、
「何もないからっぽのあの感じに少し近い。」
となるでしょう。これも全く雰囲気が違いますね。
言葉をおぼえたての幼児も、「公園、あそぶ。行く。」のように、助詞を省いてしゃべることがあります。
このようにみてみると、『女生徒』の文体は、助詞を省いて読点を多用することで、まだ大人になりきっていない主人公のたどたどしさを表現していると考えられます。
太宰治は文体を使い分けることが上手な作家です。ほかの太宰作品を読むときにも、文体に注意してみるとより一層おもしろく読むことができます。
・物語の構成は?
この物語は、同じような生活や、同じような行為を繰り返していく恐怖が描かれています。
台所に腰掛けて、雑木林を見ていた主人公は、昔にも同じ事をしていたことを思います。と同時に、未来にもきっと同じ事をするだろうという確信があります。
主人公にはそれがおそろしくて、嫌になるのです。そのおそろしさは、物語の構造によって、さらに強調されています。それを見ていきましょう。
物語の冒頭は、こんな特徴的な一文から始まります。
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。
始まりからグッと引き込まれる名文ですね。
実は、この一文は結末部の文章と対比しています。以下がその文章です。
眠りに落ちるときの気持って、へんなものだ。
「眼をさます」と「眠りに落ちる」がきれいな対比になっています。一日の出来事であることが分かりやすくなっていますね。
同じく冒頭で、ほかにも対比している部分があります。
また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって
という目覚めの描写と、結末部の、
また、ちょっと糸を放す。そんなことを三度か、四度くりかえして
という眠りの描写です。ここでは数字を使って対比させていることが分かります。
太宰治はこうした対比を用いて、作品の始まりと終わりの両端を縛ることで、物語に閉じた印象を与えています。
この物語の円環構造(物語の始まりと終わりが繋がる)は、また明日も同じように目が覚めて、同じように眠るのだという、未来への閉塞感を表現し、繰り返されるおそろしさを強調することに役立っていると言えるでしょう。
-感想-
・父親を思う娘の物語
この物語に寂しさを加えているのは、主人公の父の不在でしょう。
主人公の回想に度々あるように、父は2,3年前に他界しています。
ときおり、誰もいないところで「お父さん」とつぶやく主人公の姿は同情を誘うほどです。
彼女は寂しかったんだと思います。とにかく父親が好きだったことが、文章からとても伝わってくるからです。
実際、『女生徒』のもととなった日記の書き手は、数年前に父を亡くしています。太宰に日記を送ったのも、父親を思うがゆえにしたことかもしれません。
『女生徒』は、大人になってしまう抵抗が、主人公を通して描かれている作品だと言われたりもします。たしかにそれもあるでしょう。
ただ僕としては、父親がいなくなったことによる一家の没落を、強く感じる作品でした。
作中ではほとんど描かれない父親ですが、母親の寂寥や、主人公の悲しみを通して、慕われていた父親がかえって立体的に浮かび上がってくる作品のように思います。
以上、『女生徒』のあらすじと考察と感想でした。
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