禅智内供の鼻と言えば、池の尾で知らない者はない。
芥川龍之介『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p19,文藝春秋,1997.
作品紹介
上品なユーモアのある作風が漱石の心をこそばしたのであろ。
『鼻』-あらすじ
・まずは登場人物に聞く簡単なあらすじ
わしの鼻は唇の上から顎の下にまで垂れ下がるほど長いからじゃ。
周りには気にしている事を悟られないようにしながらな。
短く見える角度を探したり、ときには鼠の尿を鼻にかけたこともあった。
ところがある日、弟子の僧が医者から治療法を教えてもらってきた。
踏んでもらうと鼻から粟粒のようなものがでてきて、それを毛抜きで抜くと驚いた事に鼻は小さくなりおった。
ところがじゃ、気がついてみると周りが以前よりもわしの鼻を見て笑うようになっておる。
皆がしきりに笑うものだから、しまいには鼻の短うなったのを自分で恨めしく思うようにさえなった。
長いのを無理に短うしたで病でも起こったかとわしは思った。
わしは起きてその庭を見ると深く息を吸い込んだ。そのとき、ほとんど忘れていた感覚がわしに帰ってきたのだ。
そして同時に、鼻が短くなったときと同じようなはればれとした気持ちがどこからか帰ってくるのを感じたのじゃ。
これで話はおしまいじゃ。
・文章で読みたい人向けのあらすじ
禅智内供の鼻を池の尾で知らないものはない。
その鼻は五六寸もあり、上唇の上から顎の下まで長く伸びている。
内供の歳はもう五十にもなるが、子どもの頃から自分の鼻を気に病んでいた。
表面的にはさほど気にしていないという風を装っていたのであるが、内心は経文に鼻という言葉が出てやこないかということにすらビクビクしていた。
内供が鼻を持て余した理由は二つある。
一つは実際的に鼻の長いのが不便であった。そしてもう一つは――実はこちらが主な理由なのだが――鼻によって傷つけられる自尊心である。
池の尾では内供の鼻について心ないことを言うものもいた。そこで内供はその自尊心の毀損を快復しようと、積極的・消極的にかかわらず色々な事を試した。
まず内供は実際よりも鼻を短く見せることのできる色々の角度を探した。けれども短く見える角度を発見できることはなかった。
次に内供は自分と同じ鼻を持っているものがいないか探した。同類を見つけて安心したかったのである。けれどもやはり内供のような鼻を持つものは一人も居なかった。
最後に内供はあらゆる書物の中に同じような鼻を持つものが居なかったか探した。耳の長いのは見つかったけれども鼻の長いのは見つからない。内供はこれが鼻だったらどんなに自分は心細くなくなるだろうと思った。
そうした消極的な苦心をしながらも、もちろん積極的に鼻の短くなる方法もできる限り試した。
烏瓜を煎じて飲んでみた事もある。鼠の尿を鼻へなすってみた事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げている。
ところがあるとき弟子の僧が知己の医者から鼻の短くなる法を聞いてきた。
その法は湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるというものだった。
内供がこれを試すと、長かった鼻は今までのことが嘘だったように小さくなった。これでもう誰も笑うものはあるまいと思い、内供は満足した
翌日になっても鼻は短いままである。内供は安心して、久しぶりにのびのびとした好い気持ちになった。
ところが二、三日経ったところで内供は意外な事実を発見した。周りが前よりも自分の鼻を見て一層笑うようになったのである。
これはわしの鼻が短うなったからに違いない。そう気がついた内供は人々の意地の悪さに腹が立ったが、しまいには小さくなった自分の鼻を恨めしく思うようにさえなった。
するとある夜のこと、内供は鼻がむずがゆくて眠れなかった。大きかったものを変に小さくしたので病でも起こったのかもしれん。内供は鼻を手で恭しく押さえながらそういった。
次の日の朝、起きてみると外の庭は銀杏の落ち葉で金色にきらめいている。内供には何か懐かしい感覚がかえってきてふと鼻を触った。そして鼻がもとのおおきさにもどっていることを知った。
すると内供は鼻が短くなったときと同じような晴れ晴れとした気持ちがもどって来るのを感じ、長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら、これでもう誰も笑うものはないだろうと自分に囁いた。
『鼻』-解説(考察)
・『鼻』-概要
主人公 | 禅智内供(ぜんちないぐ) |
物語の仕掛け人 | 弟子の僧 |
主な舞台 | 池の尾の寺(京都宇治市) |
時代背景 | 平安時代 |
作者 | 芥川龍之介 |
・『鼻』で芥川龍之介が伝えたかった事は何か
傍観者の利己主義って?
具体的には、彼らは人の不幸を見て面白がるが、その人が不幸を克服するとそれはそれで物足りなくなる。もっと言えばその人をまた不幸にしてやりたいとさえ思うのじゃよ。
もっと残念なのは、本人がそうした感情を持っている事に気づいていないという事なのじゃがな。
・芥川文学に共通する願いの成就と失望
願いは叶うと色褪せる?
これはどういうことなのでしょうか?
実は、芥川が書いた『芋粥』も同じような物語になっておるの。
二つの作品に共通しているのは、どちらも願いが叶ったときの現実を描いており、願いが叶って幸せになった訳ではないということじゃ。
こうした問題は「幸福とは何か」を考える上で非常に重要であるように思うのう。
・身体的コンプレックス
性的な隠喩としての『鼻』
夏目漱石が大学で芥川を初めて見たとき、「血氣未だ定まらざるとき、之を戒しむる色に在り(若いときはまだ血気が安定していない。戒めるべき点は色欲にある)*1」と訓したそうな。
これは『論語』の言葉で、「若いとき色欲にまかせて遊んでいると過ちの元となるよ」という意味じゃ。
友人で後輩にあたる小説家の小島政二朗も「だつて、芥川さんのは憎らしいほど大きいんだもの」と笑いこけた*3ほどじゃ。
いざという段になるとその大きさに女性が驚き拒絶されるというのもよく聞く話じゃからの。
「長さは五六寸あって(中略)形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っている」
芥川龍之介『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』,p19,文藝春秋,1997.
ともかく芥川龍之介は身体的コンプレックスに着目して物語を描いたというわけじゃな。
『鼻』-感想
・誰にだってコンプレクスはある
初めて読んだのは大学生の頃ですが、「僕って禅智内供だっけ?」と思うくらい内供の気持ちに共感したことを覚えてます。
人には大なり小なりコンプレックスがあると思いますが、僕にもやはり身体的なコンプレックスがあって、小学校の頃からそれをとても気にしていました。
内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。
芥川龍之介『鼻』
内供と同じように、僕も人からコンプレックスについての言葉が出てくることに恐怖していました。
過度な自意識ですが、その言葉を聞いた誰かが僕を連想してしまうかもしれないという他人の想像力が怖かったのですね。
ハゲている人が禿げの話題になると居たたまれない気持ちになると思いますが、それと同じ感覚です。
みなさんの中にも、背が小さいだとか耳が大きいといった身体的コンプレックスを抱えている人は少なくないはずです。
芥川龍之介の『鼻』はそんな人々のコンプレックスを冷静にみつめて笑い飛ばす、ユーモアのある小説であるように思います。
僕の大好きな芥川作品の一つです。
・『鼻』の原作について
芥川龍之介の『鼻』には原作が存在します。
『今昔物語集』 巻二十八の二十 「池尾の禅珍内供の鼻の物語」と、『宇治拾遺物語』 巻二の七 「鼻⻑き僧の事」の二つです。
芥川はほかにも『羅生門』や『芋粥』など、今昔物語から題材を取った作品がいくつかあります。
『鼻』もその内のひとつで、芥川の「王朝物」と呼ばれたりもします。
少しマニアックな話ですので、原作としてそんな作品があったんだなくらいに思っておくと良いと思います。
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以上、芥川龍之介『鼻』のあらすじと考察と感想でした。
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