『桜桃』とは?
『桜桃』は、太宰治が遺した最後の短編小説です。
桜桃という果物を通して、妻と子を持つ主人公の心情が表現されています。
ここではそんな『桜桃』について、あらすじ・考察・感想までをまとめました。
それではみていきましょう。
あらすじと設定
主人公は遊んでばかりいる駄目な亭主で、家には妻と三人の子どもがいます。
ある日、子どものことがきっかけで妻と喧嘩になり、主人公はいつものように家を出ていきます。
そして酒屋へ飛び込み、主人公は出された桜桃を見ながら、(子供は桜桃なんて見たこともないだろうな)と思いつつも、まずそう種を吐きながら食べます。
物語の設定
- 主人公―――家庭の父親
- 重要人物――妻
- 主な舞台――家→酒場
- 時代背景――戦後直後
- 作者――――太宰治
-解説(考察)-
・主人公のねじれた自己
『桜桃』のキーワードは、
- 「子供より親が大事、と思いたい」
という主人公の心情です。
注意したいのは、「と思いたい」という表現は、
そうは思ってはいないということを表している
ということです。
太宰がややこしいのは、こうした感情のポーズの裏を読ませる表現にあるのではないでしょうか。
「子どもよりも親が大事」なわけはないけれど、「親よりも子が大事」とも言い切れない。そんな感情を、絶妙に表しています。
主人公はこのように矛盾する感情を同時に持ち、自己をどこまでもねじれさせて苦しんでいく。そうした表現が『桜桃』ではみられます。
・桜桃の象徴
作品のタイトルにもなっている「桜桃」は、ラストのシーンでも印象的な役割を果たしています。
桜桃が出た。(中略)
父が持って帰ったら、よろこぶだろう。(中略)
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。太宰治『桜桃』
体言止めが苦しさをより表していますね。ちなみに桜桃はさくらんぼのことです。
さくらんぼは、実に対して種が大きいことが特徴でしょう。
『桜桃』では「子ども」の存在が大きく描かれており、このさくらんぼの特徴にも合致します。
また、実は種を守る役割であることから、
- 種=子ども
- 実=親
と考えることができます。
主人公は、桜桃を「極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐」いています。
これは、本当に実がまずいのではなく、ひとり美味しそうに食べることに罪悪感を覚えるからでしょう。
それに、実=親と考えると、実が美味しいことを認めてしまったら、親を肯定することにもなります。
一方、種=子と考えると、種を吐くという行為は、「子供よりも親が大事」という虚勢に勢いをつかせている行動です。
つまり、ここでも行動と感情がねじれており、桜桃という果物の特徴が主人公の気持ちと重なっていることが分かります。
また、先ほど書いた「『桜桃』はさくらんぼの種が大きいように子どもの存在も大きい」というのは、作中に出てくる長男のことを指します。
『桜桃』に出てくる長男は知恵が遅れていて、主人公夫婦は気づかないふりをしながらも、心の重荷になっています。
白痴、唖、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたく思う。
太宰治『桜桃』
実際、太宰の長男はダウン症で、彼の存在が自殺の一因だったのではないかとまで言われたりもします。
主人公の中で、長男の存在が大きいことは明らかでしょう。
『桜桃』はそうした父子の関係を、さくらんぼという果物を通して描いた作品であると考えることができます。
ちなみに、太宰治の代表作『人間失格』では、主人公・葉蔵の子どもの観点から、父子の関係が描かれています。
ここでは『人間失格』の作品考察もあるので、知りたい方は記事をチェックしてみて下さい。
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『人間失格』はバッドエンドか?あらすじ・解説・感想をまとめました!
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-感想-
・詩篇 第百二十一と涙の谷間
『桜桃』の冒頭には『詩篇』の引用があります。
われ、山にむかいて、目を挙ぐ。
――詩篇、第百二十一。
これは、旧約聖書の言葉です。続きの言葉は、
わが助け何処より来たらん。
となります。
まとまると、「山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。」という意味になります。
『桜桃』は太宰の最後の短編小説だったことから、彼の切羽詰まった心情が表されていると言っていいでしょう。
しかし、太宰はそれを作品に落とし込んできちんと構造化しています。
それは、妻の言う「涙の谷」です。
「私はね」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」
夫が山を仰いでいるのに対して、妻は谷を見下ろしています。
こうした対比は、夫と妻の見つめる先が正反対に描かれていることを意味します。
夫婦で子どもに対する接し方や、問題の捉え方などの違いを表しているのかもしれません。
こうしてみると、『桜桃』は主人公の自己を描きつつも、
- 父である主人公と子ども
- 夫である主人公と妻
という2つの関係も描いた作品であるといえるでしょう。
太宰の初期や中期の作品からは、父親や兄の高圧的な影がよく感じられます。
しかし、そうした太宰が晩年に遺した作品が「父」という立場から描かれている点は、非常に面白いです。
もうすこし長く生きてくれたら、支配する立場の苦悩がどのように描かれたのか。思わずそんなことを考えてしまいます。
以上、『桜桃』のあらすじと考察と感想でした。
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