『駆込み訴え』とは?
太宰治の『駆込み訴え』は『新約聖書』の話をもとに、裏切り者のユダを主人公にして描かれた話です。
キリストを裏切ったユダの心情を、太宰治が想像して描いたフィクションになっています。
太宰は生涯でキリストにまつわる作品をいくつか書きますが、『駆込み訴え』はその中でも初期の頃のキリストものです。
『新約聖書』の物語が基盤となっているので、その内容を知っていると、より楽しめる作品でもあります。
ここでは簡単にではありますが、『新約聖書』の内容も合わせて『駆込み訴え』を解説していきます。
-あらすじ-
主人公が、あわてて何かを訴えています。
落ち着いてその話を聞いてみると、主人公は師である主(あるじ)を殺して欲しいと言うのです。
そして彼は、主がどれだけだめな人間なのかということや、受けた苦労などを話します。
しかし、よくよく話を聞いてみると、その主というのはキリストのことで、彼は主を愛していることが分かります。
その当時、キリストは多くの敵に命を狙われていました。
主人公は、ほかの人間に殺されるのなら、愛している自分が殺したいと思い、主の居場所の密告を計画します。
主であるキリストは、主人公が密告することを見抜いていましたが、その本心までは見抜けませんでした。
そうして主人公は主の居場所を密告し、報酬である銀貨をもらいました。
彼の名は、イスカリオテのユダと言います。
-概要-
主人公 | ユダ |
物語の仕掛け人 | キリスト |
主な舞台 | エルサレム |
時代背景 | 1世紀 |
作者 | 太宰治 |
-解説(考察)-
・誰が誰に訴えているのか?
この物語は、主人公であるユダが「旦那」と呼ばれる人物に訴えかける形で進んでいきます。
ユダはキリストを裏切ることで有名な人物です。そして、この「旦那」というのは、エルサレムの祭司です。
この物語は『新約聖書』の内容を知っていることが前提になっていたりもします。次の章では、その『新約聖書』の内容とともに『駆込み訴え』を解説します。
・『新約聖書』と『駆込み訴え』の違い
『新約聖書』と『駆込み訴え』は、それぞれ視点が違うので、同じ物語でも描かれ方が違います。
全てを上げることはできないので、ここでは3つのポイントに絞って、その違いを見ていきましょう。
ポイント1 聖書「ユダはけちだ!」 太宰「ケチじゃない!」
どちらの物語もユダは商人であり、イエス一行の経済を任された会計係だったので、お金に関しては人一倍気を使っていました。
そのせいもあり、『新約聖書』では、ユダはかなりケチな人物として描かれています。
一方『駆込み訴え』では、ユダがコツコツ貯めていた金をキリストが無駄に使っても、大目に見るほど寛容な人物として描かれています。
これは、「キリストが貧しい人々に物をたくさん上げるから、イエス一行のお金はすぐになくなる。財布係のユダがケチになるのは当然じゃないか」という太宰の推論から来ているのだと考えられます。
ユダはケチなのではない、キリストがそうさせてしまってるのだということが、太宰の主張です。
ポイント2 聖書「マリアはよい行いをした」 太宰「マリアはイエス様を誘惑した」
キリストの近くには、マリアという若い女性がいました。
『新約聖書』の物語終盤、彼女はキリストの命がもうあまり長くないことを悟り、夕食のときに皆が集う前で、キリストに香油をたくさん浴びせます。
当時、香油は高価で貴重な物だったので、ユダはもったいないことをしたマリアを叱りました。
しかしキリストは、マリアが香油を浴びせたのは、自分(キリスト)の死が近いことを悟ったからだと見抜き、彼女を責めるなと言います。
この話は、『新約聖書』の中でも「最後の晩餐」と並んで有名な話です。
これが、太宰の『駆込み訴え』だと、こういう話になります。
イエス様はマリアに香油を浴びせられて、頬が赤くなっていた。きっと彼はマリアに特別な感情を持っていたのだ。
マリアは私(ユダ)が愛していたイエス様を奪った。私は香油がもったいないから怒ったのではない。そうした行為でイエス様の気を引くマリアに憤慨し、赤くなったイエス様の感情に嫉妬したのだ。
なんと三角関係の話になっています。太宰の想像力のたくましさが前面に出ていますね。
これは『新約聖書』には性的な描写がないことに対して、『駆込み訴え』は人間味のある物語を重視しているからでしょう。
マリアの行為はよい行いではなく、イエスを誘惑しようとしていたのではないかというのが、作中から見られる太宰の主張です。
ちなみに、イエスとマグダラのマリアの関係には様々な説がありますが、恋愛関係にはないというのが定説となっています。
ポイント3 聖書のユダ「銀貨30枚うれしい」 太宰のユダ「銀貨などいらない!」
『新約聖書』のユダは、お金が好きな悪徳の持ち主として描かれています。ですので、最後の裏切りも、銀貨ほしさに裏切ったのだなと読者に思わせます。
しかし『駆込み訴え』では、物語の最後、ユダは一度「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ!」と銀貨30枚の受け取りを拒否します。
『駆込み訴え』のユダはケチではなく、愛や信義を重んじるキャラクターとして描かれているので、(これはきっとユダの本心だ)と思わせるような書き方になっています。
そのあとの、「いいえ、ごめんなさい、いただきましょう」という言葉も、(自ら進んで悪役になろうとしてるのかな)など、ユダに都合のよい解釈をしてしまいます。
それは何もおかしいことではなく、実際に太宰はそう思わせるような書き方をしています。そして、その設定はこの物語の続きに影響してきます。
『新約聖書』でユダはその後、銀貨30枚を使わずに、聖所に入れてから自殺します。
この自殺は、新約聖書をそのまま読めば、自責の念ということになるでしょう。
しかし、『駆込み訴え』のユダは、「あの人を殺して私も死ぬ。」とはっきり言っているので、裏切る前から自殺を決めていたことになります。
そのため、ユダにとって銀貨30枚が本当に必要だったとは思えず、「金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。」という言葉が真実味を増すという物語の構成になっています。
ユダのその後を知っていれば、結末の読み方も変わってくるような言葉の仕掛けが面白い場面です。
-感想-
・太宰治の行間を読む力
『新約聖書』では、「最後の晩餐」でユダが密告をしに去ってから、兵士と祭司を連れてくるまでの間の記述がありません。
つまり『駆込み訴え』は、聖書に書かれていない「ユダの密告の場面」を埋めた創作であることが分かります。
ユダはなぜ裏切ったのか?という議論は古くからありますが、太宰はその答えを『駆込み訴え』で出しているといえるでしょう。
また、太宰はこの物語でユダの裏切りを完全な悪として描いていませんが、実は、こうしたユダの裏切りを肯定的にとらえる立場の説も大昔からあります。
聖書に書かれていない部分なので、どう考えるのも自由といえば自由です。
この作品が面白いのは、聖書の行間を読んだ太宰の創作を、「もしかしたらそんな可能性もあるかも」と想像を膨らませて楽しめる点にあるのではないでしょうか。
行間を読み、読者の知識を踏まえながら作られたこの物語は、文学の楽しみ方がとてもよく出ている作品だと思います。
以上、『駆込み訴え』のあらすじと考察と感想でした。
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