『ヴィヨンの妻』とは?
『ヴィヨンの妻』は、戦時中に太宰治が疎開先で書いた短編小説です。
遊び人の夫をもった若い妻が主人公で、彼女の苦悩や生き方が描かれていく物語です。
ここでは『ヴィヨンの妻』のあらすじ・考察・感想までをまとめ、詩人ヴィヨンと太宰の関係についても解説します。
-あらすじ-
『ヴィヨンの妻』は全三章で構成されています。
ここでは章ごとにあらすじをまとめました。
- 主人公「妻」は、夫が行きつけの居酒屋から多額のお金を盗んだことを、居酒屋の夫婦から知らされる。
- 次の日、主人公はその居酒屋へ行き、「後できっと夫がお金を持ってくるので、ここにいさせてくれ」と嘘をつく。ところが、後になって夫は本当にその居酒屋に現れる。
- 夫はそのときにお金を返し、主人公はそのまま居心地の良かった居酒屋で働くことにする。
・-概要-
主人公 | 27才の妻 |
物語の仕掛け人 | 夫 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 戦後直後 |
作者 | 太宰治 |
-解説(考察)-
・ヴィヨンって誰?作品に与えた影響は?
タイトルを読んで、
- 「ヴィヨン」って誰?
と感じる方は多いと思います。
このタイトルの「ヴィヨン」とは誰かというと、詩人フランソワ=ヴィヨンのことです。
彼は15世紀フランスの詩人ですが、同時に女性とお酒に目がない遊び人でもありました。
また、強盗や傷害事件をおこした犯罪人でもあります。
太宰はそんなヴィヨンと、主人公の夫が遊び人であることをかけて、『ヴィヨンの妻』というタイトルにしています。
太宰は彼の詩が好きだったようで、『乞食学生』という作品にもヴィヨンの詩を取り入れたり、ヴィヨンと駄目な主人公を重ねたりしています。
『ヴィヨンの妻』に加えて、この『乞食学生』も、ヴィヨンに影響を受けている作品であることが分かります。
芥川龍之介も『文芸的な、余りに文芸的な』のなかで、ヴィヨンを、
- 人間的には失敗しながら、芸術家として成功した人物
と評していて、ヴィヨンの素性は作家の中で広く認識されていたようです。
→芥川龍之介の記事一覧を見る
・救済した妻と救われたヴィヨン
『ヴィヨンの妻』の冒頭で、主人公の夫が居酒屋の主人から逃げるときに、ナイフを取り出す場面があります。
男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。
「放せ! 刺すぞ」
夫の右手にジャックナイフが光っていました。太宰治『ヴィヨンの妻』
すこし恐ろしい場面ですね。
実は、先ほどあげた太宰治の『乞食学生』でも、同じような描写があります。
これも同じく、佐伯という人物が主人公から逃げようとする場面です。
佐伯は、一言も発せず、ぶるんと大きく全身をゆすぶって私の手から、のがれた。のがれて直ぐにポケットから、きらりと光るものを取り出し、
「刺すぞ。」と、人が変ったような、かすれた声で言った。私は、流石に、ぎょっとした。太宰治『乞食学生』
『乞食学生』にもヴィヨンの詩が挿入されていますので、ヴィヨンが関係している二つの作品で、同じ描写があることが分かります。
これは、フランソワ=ヴィヨンが、
- 傷害事件で絞首刑の宣告を受けている
ことに関係があると考えられます。
ヴィヨンは相当な荒くれ者で、乱闘騒ぎで司祭を殺してしまったことさえあります。
こうしたヴィヨンの設定を、太宰は作品の中に持ち込んだのでしょう。
さて、ここで注目しなければならないことがあります。
それは、どちらの作品でも、人を刺さずにナイフを収めたということです。
『ヴィヨンの妻』は主人公がナイフを持った夫を逃がしたので、けが人は出ませんでした。
また『乞食学生』でも、友人の言葉で佐伯はナイフを下ろします。
これはつまり、友人や妻のおかげで、ヴィヨンと同じ末路をたどる人が出なかったということです。
このようなことから、『ヴィヨンの妻』の夫は主人公(妻)に救われており、『乞食学生』の佐伯は友人に救われていることが分かります。
友人や妻という心を許した人間関係さえあれば、ヴィヨンのような荒くれ者でも、ナイフを納めるほどの効果があるということを、暗に表現しているのかもしれません。
・社会に出ることで悪に染まる?
『ヴィヨンの妻』は、
- 社会に出ることで悪に染まるという物語の構成
になっています。
物語の初めでは素直な明るさを見せていた主人公ですが、居酒屋で働き出すと変化が起き始めます。
私には、椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんがひとり残らず犯罪人ばかりだという事に、気がついてまいりました。(中略)また、お店のお客さんばかりでなく、路を歩いている人みなが、何か必ずうしろ暗い罪をかくしているように思われて来ました。(中略)我が身にうしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事は、不可能だと思いました。
太宰治『ヴィヨンの妻』
社会にでてみると、主人公の知らなかった闇が、次第にみえてくるようになるのです。
これは、物語の初めには社会の外にいた主人公が、居酒屋での労働という行為を通して、社会に出たことを表します。
社会を見た主人公によると、社会とは「我が身にうしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事は、不可能」な世界だといいます。
そうして主人公も、やはりその「うしろ暗さ」を背負ってしまうことになるのです。
神がいるなら、出て来て下さい! 私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。
太宰治『ヴィヨンの妻』
これは、主人公が社会に出なければ、起こることのなかった出来事です。
そしてもっと言えば、夫の「うしろ暗いところ=」がなければ起こることのなかった悲劇です。
こうしてみると『ヴィヨンの妻』は、妻を社会に出してしまった夫の不徳を描いている物語だと言えるでしょう。
妻が悪いわけでもなく、社会が悪いわけでもなく、夫の不甲斐なさが悪いのだ、という主張が読み取れます。
ちなみにですが、妻が夫以外の男にけがされるという物語上の設定は、太宰の代表作『人間失格』にも見られます。
妻が強姦されるという出来事は、後年の太宰を貫いているひとつの主題かもしれません。
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-感想-
『ヴィヨンの妻』は、ロマンチストからリアリストへ変貌する主人公を描いていると思います。
考察でも述べたように、主人公は夫を救い、はつらつと働く姿は素直な明るさがみえます。
また、来るあてのない夫を来ると言ってみたりして、その行動や言動からはロマンチズムが見え隠れします。
しかし、店の客にけがされた主人公からは、そのロマンチズムが消え失せます。
たとえば、ラストのセリフなどにそうしたことは読み取れるでしょう。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
太宰治『ヴィヨンの妻』
この痛ましいセリフは、全ての「うしろ暗い」ことを肯定する言葉です。
それは夫へ向けたものであり、また自分へ向けたものでもあり、さらには社会の人間全てに向けたものでもあります。
そこにロマンチストの影は去り、徹底的に現実を見つめたリアリストが顔を覗かせます。
こうした主人公の変貌も、『ヴィヨンの妻』の魅力ではないでしょうか。
以上、『ヴィヨンの妻』のあらすじと考察と感想でした。
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